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前田慶次道中日記

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"[ 傾奇御免とっぷ | 前田慶次道中日記とっぷ ]
前田慶次道中日記について

工藤定雄著「前田慶次道中日記」より

ライン

 慶長六年(1601年)、京都伏見を出発して米沢に着くまでの二十六日間の道程を日ごと、一里単位で書いた日記である。
 筆者の前田慶次利貞は、通称・宗兵衛といい、後に慶次と改めた。天文十年(1541年)、尾州・海東郡荒子に生まれた。前田利家の兄・前田蔵人利久の養子となり、初め織田信長に仕えた。天正十八年(1590年)に叔父の利家が豊臣秀吉の命令で小田原の北条氏征伐に向かったので、慶次も従軍した。この年の七月、利家の陸奥地方の検田にも従っている。

 小さい時から自由に伸び伸びと行動していて慶次。天正の末、加賀から京都に出たときは、利家を茶湯に招いて、偽って水風呂に入れ、その隙に利家の馬に乗って行ってしまった、というエピソードがある。京都に出てからは、文学を好み、文人と交わり、和歌や源氏物語、伊勢物語などの秘伝を受け、特に連歌を好んだようだ。この「道中日記」でも、源氏物語に触れており、また古文や漢詩の教養がにじみ出ている。

 慶長三年(1598年)、会津に来て上杉景勝に仕え、客分として禄千石を与えられた慶次だが、景勝との出会いは京都住まいの頃だった。文学を好んだ上杉の家臣・直江兼続との付き合いを通して景勝を知る。慶長五年(1600年)、直江兼続が最上義光を攻めた際には、慶次も従軍して大きな戦功を立てた。しかし、景勝は会津百二十万石から、四分の一の三十万石に減らされれて米沢に移された。景勝が京を後にしたのは、慶長六年(1601年)十月十五日。慶次が景勝の後を追って京を出たのは、九日後の十月二十四日であった。人生の最終コースを、不運の景勝にかけたのである。従って、この「道中日記」は、十月二十四日から翌十一月十九日に米沢に着くまでの二十六日間の旅日記である。しかし、生涯を自由に生き、文武両道に優れていた慶次が、どうして斜陽の「米沢」を選んだのか。人間性を知った慶次だからこそ、こうしたのかもしれない。この日記には人生を見つめ、悟りの境地にいる厳しさと落ち着きがうかがえる。「道中日記」の十一月十八日。道程も終わりに近く、板谷峠を越そうとする時に、こう詠む。「あづさ弓いたやこしするかりは哉」―――再び都に帰るまいとする心のうちを抑えながら表現している。

 ところで、一里塚は慶長九年(1604年)、徳川家康によって、江戸・日本橋を起点に東海、東山、北陸の三道で整備さえた。これ以前にも、京都中心に、信長・秀吉によって一里塚の原形がつくられており、慶次が道中で使った里程もそれによるものらしい。慶次は、この道中を歩くほかに、馬や舟を使っている。一日目の京都・伏見から十一日目の信州・望月まで徒歩だが、琵琶湖のかかる近江の堅田から前原(米原)までは舟で走っている。そして、終わりの十五日間は馬を利用、一日に二十里(約八十キロ)から最高六十五里(約二百八十キロ)も走らせている。関ヶ原を出て、中山道を下り、軽井沢を越えて宇都宮のコースを選んだ慶次。関ヶ原の戦いすぐ後だけに、家康の東軍主力のたどった経路を逆に歩いたのではないかとみられている。

 景勝に身を寄せ、直江兼続を信じて、米沢に永住を決意した慶次。転封減石の厳しさのなかにあって、米沢は慶次に二千石を与えて厚遇。米沢城外堂森で、慶次は慶長十七年(1612年)静かに息を引き取った。"


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"前田慶次郎の道中日記

工藤定雄著「前田慶次道中日記」より

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 前田慶次郎は奇男子であった不羈奔放な魂の持ち主であった。安土桃山時代の武将等にも、大勢に順応するをこれ事とし、己を護ることに汲々乎としていた人が存外多い中にあって、慶次郎はあくまでも自己の個性を発揮して、個性的な生涯を送った。その点が最も快いが、然もこの人が「源氏物語」を愛読して、その講釈までしたというのであるから、いよいよなつかしく感ぜられる。

 しかし慶次郎については、その資料の伝えられるものが少なくて、まだその一生にみ明らかになっていない点も多い。「加賀藩史料」の慶長十年十一月九日の条に関係文献がまとめて出してあって、その内の野崎知通の手記など、殊に注意すべきものがあるけれども、それをそのままには承認し難い。慶次郎のような痛快男児の生涯がまだ鮮明を欠いているのを、私等は遺憾としなければならない。

 慶次郎については、私も特に知るところに乏しいが蓬左文庫にその「道中日記」一巻が載せられている。尤もそれは新しい写本で、栗岩英吉氏の蔵本を写した由が断ってあるが、その栗岩氏の本というのは慶次郎自筆の原本か、やはりまた転写本だったのか、それらの点が明らかでない蓬左文庫本はすべてで十九丁ある。即ちその量はいうに足らぬけれども、読んで見るとさすがに面白い。よってその大体をここに紹介してみたい。


 前田慶次郎の「道中日記」は、慶長六年即ち関原役の翌年に、京都から米沢へ下向した折のことを叙したもので、十月二十日に伏見を立つところから始まっている。

「こはだの里に馬はあれど、ふしみの竹里より打出の浜までは乗物にで行。関山をこゆるとて、誰ひとりうき世の旅をのがるべきのぼれば下るあふ坂の関」

 日記はかように書起されている。
 慶次郎はこの旅に、朝鮮人とその子二人とを従えたが、途中その親が病んだために、人に託して、子等二人だけを具して旅を進めた。さようなことが二十六日の条に見えている。その日の記事の前に、「前原より関が原五里、関が原より赤坂へ三里。以上八里。」としてあって、ついで次のようにある。

「菩提山の麓関が原まで到る。予が召使ふ高麗人いたく患ひて馬にても下るまじきなれば、菩提の城主(に?)文添へて預け置く。楚慶、官人とて子二人あり、これは奥に連れて下る。親子の別れ悲しむ、楽天が慈烏失其母、?々吐哀音といへり。此人高麗人なれば、不如□□□。是さへ涙のなかだちとなりぬ。」
 朝鮮人は、何れ朝鮮役でつれられて来たのであろうが、かように慶次郎などに仕えて、その憐愍を受けていた者などもあったのである。


 三十日に木曾路に入る。

「木曾の山道□□も落合の宿、妻子の里に休らへば、狐狸の変化かとうたがふばかりけはひたる女あり。山家のめづらかなりし見物也。里はづれのそば道をべに道といへば、けはひたる妻戸の妻のかほの上にぬりかさねたるべに坂の山」

 慶次郎は、あやしげなる化粧の女を見て、かようなざれ歌をよんでいる。
 その翌年十一月朔日の条にまた参考になる記載がある。「野尻より須原へ一里半、須原より荻原二里、荻原より福島に二里、福島より宮越一里半、以上七里」としてあって、その次に木曾の桟道のことが述べてあるのである。「須原、荻原を過ぐれば、道の傍らに大きなる鳥居あり。いかなる宮柱ぞと問へば、是より奥道廿里ありて、木曾の御岳と申す。山に権現立たせ給ふ。こゝより瑞垣の内たりと云ふ。木曾のかけ橋はもと見し時は、丸木など打渡し打渡しして置きぬれば、年々大水に流れ失せなどして、行きかひも五月などは止まることあり。太閤高家改め給ひ、広さ十間、長さ百八十間に、川の面を筋かひに渡し、車馬往来運送旅人、相逢ふの行脚、或は都に上り或は東に下る貴賤、よろこばずといふ事なし。信濃路や木曾のかけ橋なにしおふとは今のことにや。・・・・」
 五日には坂本に宿った。その夜京都の友を夢みて一絶を賦した。「向東去北行路難。遥隔古郷涙不乾。我夢朋友高枕上。破窓一宿短衣寒。」この友人といふのはいかなる人物たったろうか。
 「そのあたりの家に休らへば、けはひそこなひたる女の頬紅塗りたるあり。行方(越方の誤か)を問へば涙にむせび、都より人にかどはかされて来ぬ。人の形よく生まれたるほど物憂きはなしといふ。その女の顔は横に三寸も長くて、出歯ご(?)に歯がすの付き、ところどころ歯の正体の見ゆるあたりは、朽葉色にで歯茎に菜の葉附き、飯粒狭まり、物をいへばもよぎ色なる息を吹く。□付いていらざれども、かゝるひとかどはかしぬるは、人の心のさまざまなるをしらん為なり。」
 当時既に、このような女性が到るところにいたのである。


 八日には高崎にあった。その日の記事がまた大いに面白い。こらは長いから書直して載せることとする。

―――この日は新町の市の日でかざし来る人が多い。それで己は奥の席に、ひとりつれづれとして籠つていたところが、主人の祈?の日だというので、能化めいた人が来た。弟子が三四人に座頭なども来た。祈?が過ぎて能化が札を書いては戴かせるのを見ると、天王九九八十六菩薩と書いてある。珍かな札の書きようである。ついで主人夫婦は、子供を二人連れて来て、この子達もまじなってやって下さい、と請う。能化は心得て、硯を引寄せて、男の子の額に犬の字を、女の額に猫の字を書いて与えた。御筆ついでに私等にも、と夫婦がいうので、能化はまた主人の額に筆太に大般若、女房の額には波羅蜜多と書いて、寿命長安と祈った。その故を問うたら、乃ちいった。男子の額に犬と書いたのは、暗闇を行く時に、狐狸に襲われぬ用心である。女子の額に猫と書いたのは、女のことなれば、犬までには及ばぬことと、猫で済ますことでござる。また御主人の額に書いた大の字は大の男の意、般は書き物に判を据えるからのこと、若は女子の額に猫の字を書いたその猫の鳴声でござる。今時は鼠がはやり申せば、その落ちるようにとの用意でござる。御内儀の額に波羅蜜多と書きましたには、どなたも御存じの如く、子を多く孕んで、子孫御繁昌あるようにとの心でござる。何れとも師匠からの伝へではなくて、われらの一存で書きつけ申すことでござる。能化は高慢そうにこのように喋々して帰った。―――

 慶次郎はかように記している。そしてまたその後に、古いことを思出して書添へている。

―――昔熊野の山中に二三箇月いたことがある。同処に祈祷を頼まれてする巫女がいて、人々から重んぜられていた。その巫女に、どのような貴い文句を唱えて祈祷をなさるるぞ、と問うたら、外でもございません。王の袖は二尺五寸、王の袖は二尺五寸と、一心不乱に唱へまする。そうすればどのような恐ろしい物も憑きませぬ、という。予は笑って、王の袖は二尺五寸ではなくて、応無所在、而生其心であろうと、その意味をも説いて聞かせた。それから三四年を経て、再び熊野へ下った時に巫女のことを問うたら、この年月祈祷が利かなくなって、それで他国へ移りました、とのことだった。なまじいに文句を教え直して遣ったために祈祷が利かなくなったのかと思うと、巫女が不便でならぬ。そのことを心に悔いているので、この度は能化の語るのにもただうなづいて、尤もだといって置いた。―――

 慶次郎はかように述べている。王の袖は二尺五寸の一事はいかにも面白い。呪文はただ精神力を集中せしめるための方便というに過ぎなかったとすれば、それはどのような文句でも差支なかったのであろう。


 十四日に白川の関を越える。そこで、「白川の関所は越えつ旅衣なほ行末も人や住むらむ」と詠じている。
 十五日に郡山の宿を立つことがあって、その後にまた興味の事実が叙してある。この条はまた原文のままを掲げよう。但し仮字を適宣漢字に改めて、読み下しの便を計ったことを断っておかねばならぬ。

「やうやうそこを立離れて、暫く来れば大きな塚あり。装ひ常ならず。いかなる塚ぞと問へば、石田治部少とやらんいふ人を、今年の秋の始頃、都より送り来り送らする。所にては物憑きなどになり、人多くなゆむこと侍るとて、国々武具を帯して、二三千(人?)計にて地蔵を作りなどする様にして送り附けたり。所にては塚をつき侍るといふ。都出し時は秘かなりしが事大儀になりて、下野あたりにては、冶部少夢などに見し人を襲ひ、我をばかくの如くして送れといひて、藁にて人形を造り、具足兜を著せ、太刀を佩かせ、草にて馬を作り、金の馬鎧を前後にかけ、冶部少と胸板(に)書附け直し、又女二人、赤きかたびらを著せ、札を下げさせ、冶部少が母、冶部が妻と書附け、以上その人形六人、青き草、柳の葉にて□□と舟とを作り、五色の幣をた立て、先に松明百挺ともし連れ、鉄砲二百挺、弓百挺、竹鎗、指物まで、赤き蘇芳染め紙をして袋をしづく。上書に冶部少と書附け、武具のなき者は、紙などの木の葉などにて武具に体をして、大きな杖刀など指しつれ、馬乗は~、かち立ちは~と、小路を分けて歩ませ、輿の側には称名念仏申上げ、鐘太鼓を叩き、竹の筒を吹きつれ、所々の巫女山伏など出会ひつゝ、夜番日番を調へ、生けにへ盛り物供へ、・・・・今年慶長六年田畠の荒れたる俄か業にはあらずやなどいふ。・・・・とにもかくにも笑の種、又たゞ人にもなしや」

 「道中日記」は十一月十九日の「ホトケより米沢へ二十里」といふ記事までで終って居り、米沢に著いた時の様子の知られぬのが残念に思われる。しかしとにかく関原役の翌年に、慶次郎はかような旅行をしているのである。そしてまたかような旅行日記が伝えられていたのである。"
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 樓主| 發表於 2015-9-6 13:29:49 | 顯示全部樓層
"前田慶次道中日記 解題

工藤定雄著「前田慶次道中日記」より

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(一)
 原本

 (体裁・紙質・枚数・書体)藍表紙、袋綴小本、毎半葉字面、縦約一八・八糎、横十・六糎、七行、行二十一字不等、本文二十七葉、但初末葉字面は半葉、片仮名平仮名交り、日付は稍大文字で概ね数字のみ、さらに日附けの下にその日の日程、里程を片仮名交りの小文字割注で示している。奥書はない。文中に朱点、朱合点が施されて訓読に便してあるが頭初筆のものかどうかはわからない。外題、巻頭ともに書名はないが、筐書に「前田慶次道中日記」同じく筐裏書に、「前田慶次、慶長六年十月城州伏見を発ち、十一月十九日奥州米沢に至る自筆の道中日記なり 咬菜記□(咬菜之朱角印)□(○庵居士)」とあり、前田慶次の直筆本と伝えている。郷土史家今井清見氏、同中村忠雄氏らは昭和六年の頃より本書に注目し、共に前田慶次直筆本と断じている(置賜文化第三十二号 前田慶次道中日記)。抑々本書は昭和の初めに骨董商永森氏らの手を経、当時東大資料編?所勤務米沢出身の志賀槇太郎氏の手に入り、昭和九年に米沢郷土館の所蔵となり、次いで現市立図書館本として珍蔵されることになった。筆到も軽妙で古体がうかがわれ、慶次自筆とする伝承は強ち否定出来ないが、きめ手がないので暫く断定を控えておきた。特に頭書にある「謹書 啓二郎」が気になる。慶次は慶次朗とも称しているが、啓二郎と称した確証がなく、第一自らの紀行を謹書と頭書する理由はない。若しかしたら慶次ゆかりの啓二郎なる人物が、慶次歿後に書写して謹上したものかも知れない。森銑三氏によれば、篷左文庫に、栗岩英吉氏蔵本より転写した本文十九葉の一本を蔵するが、篷左文庫本で読み得ない点が本書によって明らかにし得ることは貴重である(米沢善本の研究と解題)。
(二)
 紀行の成立

 京都伏見を出発した慶長六年孟冬十月廿四日に始まり、羽州米沢着の翌霜月十一月十九日に至るまで前後廿六日間の道程を日毎に一単位で?記している。因みに一里塚は、慶長九年(1604)年徳川家康により江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道が整備され旅人の便益をはかったが、これに先立って信長・秀吉により京中心に一里塚び原型が拓かれているので、慶長六年の東山道に該当する道中里程が既に出来ていても不思議でない。 この筆者は、数字には無頓着であったらものらしく、その日その日の里程の合計を屡々誤って記入している。一日目伏見から十一日目信州望月の里まで徒歩で、一日六里から十二里の行程で進んでいる。もっとも二日目の近江の堅田から前(米)原までは舟で琵琶湖をはすに走っている。霜月朔日は野尻から宮越まで八里と記されているが実は七里の里程であり、同二日の宮越から下諏訪まで十二里歩いているのに以上十一里と記している。霜月五日望月の里から終点米沢まで十五日間は馬を利用し、一日に二、三十里から最高六十五里を走らせている(付表参照)。前後廿六日間の行程であるが、同一宿に骨を休めているのが二日のみで、患うこともなく、文人の遠出としては急ぎの旅に属するといってよい。しかし日々徒歩にしろ、馬にしろ、その間和歌を詠み、俳諧を楽しみ、時に俚談に耳を傾ける余裕が感じられる。関ヶ原を出て、中山道を下り、軽井沢を越えて宇都宮を経たこの道路の意図は述べられていないが、恐らく関ヶ原戦後間もない慶長六年の秋のことであるから、関ヶ原の風のぞんで家康が引き返して西上した東軍主力の辿った経路を逆に歩いたのかも知れない。
(三)
 慶次略歴

 前田利太(とします)、通称慶次または慶次郎、初め利益(とします)、または宗兵衛と称す、利卓(とします)、利治と名乗ったこともある。生歿年は詳らかでない。加賀藩資料慶長十年十一月九日の条に要約されているところによると、
 「利太は、織田信長の部将である滝川一益(一説には滝川益氏)の子で滝川宗兵衛といゝ母が後に前田利家の兄利久に嫁し、利久に子がなかったのでそお養子となり前田姓を冒した」となっている。初め織田信長に仕えたが、利家が信長の命で本家を継いだので養父と共に尾州荒子の城を去り、後にまた利家を頼ってその扶持を受けた。能登松尾に六千石を与えられたともいう。利家の累進に比べ不遇の生活を送ったことも理解出来るが、生来自由不覊の奇行が多く、不遇によって拍車を加えられた実情もあろう。一日利家を茶湯に招いて偽って水風呂に入れ、その隙に利家の馬に乗って出奔したと伝えられる。京師に僑居(かり住まい) して文人に交わり、和歌、古典の嗜みを追い、特に連歌をよくし、穀蔵院ひょっと斎と号した。伊勢物語の秘伝を受けたのもこの比(ころ)らしく、また源氏物語を講義したというから、その方の薀蓄の程もうかがえる。短い本紀行の中にも源氏物語に触れ、随所に古文や漢詩の教養が発揮されている。上杉景勝との出会いも京都住まいの機会らしく、直接には文学好みの直江兼続との京におけるつき合いを通してのことかと思われる。慶次手沢自写の書籍に、史記の注解があり、これに桃源抄と名付けている。「故事を援拠し、文義を解釈する、頗る薀奥を極む、当世儒者の遠く及ぶ所に非ず」と清水彦助が評している(鶴城叢書巻之五十五)。景勝の客分として越後にあり、慶長三年、景勝が会津に移封になると、従って会津に移っている、関ヶ原の役には、直江に従って長谷堂合戦に功を立てたといわれる。戦後、景勝が上洛して家康に赦免を申入れるが、慶次も扈従して京にあり、その間にたって、本宗前田利家らを動かし、景勝弁護の斡旋をはこんだ形跡がある。景勝が会津に百二十万石から、米沢三十万石に移され、京を後にしたのは慶長六年十月十五日、米沢に着いたのは廿八日となっている。十月廿四日、慶次が景勝の後を追って間もなく伏見を発している。紀行の中で、十一月十八日、行程も終わりに近い板谷峠を越えんとして、「あづさ弓いたやこしするかりは哉」と詠んでいるが、もはや再び都にはかえるまいと決めている慶次のひそかな胸中が察せられる。同輩直江を信じ、景勝にひたすら身を寄せて米沢永住を心に決めたものであろう。さればこそ、翌十九日の条に、石仏から最後の行程二十里を乗馬に鞭ち「瞻衡宇欣載奔」とこの紀行を結んでいるのは印象的である。
 米沢ではきびしい転封減石の中にあって、二〇〇〇石(或は五千石ともいう)を与えて待遇し、慶次も城外堂森に隠棲し、嘯月吟歌、多くの奇行を伝えられながら、次代忠勝の時に米沢で歿した。歿年は慶長十七年六月四日で北寺町万松山一花院に葬られたことになっているが、一基の五輪塔も見当たらないのは異とすべきである。西蓮寺の北隣虚空蔵堂に一塔があり、後考を促している(鶴城叢書巻之五十五、米沢名臣嘉善緑上)。本宗前田利長によって、大和刈布に蟄居させられ、慶長十年十一月九日、七十三歳で歿したとも伝えられ、その死については何れとも定め難い。従って、「生歿年不詳」というのが今日伝えるところである (日本歴史辞典十七巻)。妻は、養父の弟安勝の女で、男正虎(加賀前田藩士、二千石)の外に五女がある(加賀藩史料慶長十、十一・九条所収「可観小説」)。

(工藤 定雄)"
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 樓主| 發表於 2015-9-6 13:29:55 | 顯示全部樓層
"米沢市図書館発行「前田慶次道中日記」

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 2001年9月に米沢市図書館より「前田慶次道中日記」が出版されました。この中には「影印本」「資料編」「前田慶次道中行程図」「前田慶次の遺跡を訪ねる」があります。特に資料編には道中日記の解読文および現代語訳、その他にも慶次郎の紹介や逸話、米沢に残る遺品・遺跡の紹介が書かれており、慶次郎ファンにはたまらないほど内容が充実しております。
 ここではその「資料編」より解読文・現代語訳を掲載いたしますが、漢字の変換、漢詩などで、どうしても表記できないところもあります。ご了承下さい。"
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 樓主| 發表於 2015-9-6 13:30:02 | 顯示全部樓層
"「前田慶次道中日記」解読文

市立米沢図書館発行「前田慶次道中日記 資料編」より

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謹書                   啓二郎

慶長六年孟冬、従城州伏見里到奥州米沢庄道之日記

廿四日 伏見ヨリ大津ニ三里、大津舟上賢田マデ三里、以上
    六里
こわたの里に馬ハあれと、ふしミの竹田より打出
の浜まてハ乗物にて行、関山をこゆるとて
誰ひとりうき世の旅をのがるべき、のぼれバ

下る大阪関、大津より湖水に舟をながせ
ば、さゞなみや、三井の古寺、昔なからの志賀
の花園、から崎のまつ、あなふの里、大ひえ、
よ川、ひらの高ね、西は熱田の長橋、石山
寺、此石山寺ハ式部か源氏物語に筆を
立し所也、其いにしへまて思ひ出て、
風の上にありか定ぬ、ちりの身ハ、行衛もしら

ずなりぬべらなりとよみし古事をひ
とりごち、行-難ノ-旅-客ノ思ヒ 浮雲ノ埃-蒙-悲
に涙もさらに留らず、日も漸暮方に賢田に
着、漁家のせバしきあしがきのうちにあがり、よ
ひと夜ねられず、あるじの物語するを聞
ば、我ははや賢虚なり、子に家をやりて
かくせバしきとかたる、故何となれば賢田
                ならびに

隠居したる物をは賢虚と云、老て賢虚
する比子に家をゆつればにや

是マデ近江也、

廿五 賢田ヨリ前原ノ湊マデ海上十五里
追風にて檣をたて帆ひきて、飛ゴとくに
弁才天嶋の世渡を過、さつまといふ
在所にふねをよせ、餉のために休らふ、里
の名をさつま也といへバ、舟はたゞのりに

せよ、さほ山のあなたなる、前原の湊
につく、

是ヨリ美濃也、

廿六 前原ヨリ関ヶ原ヘ五里、関ヶ原ヨリ赤坂ヘ
   三里  以上八里
菩堤山のふもと関ヶ原まで付、予が
めしつかふ高麗人、いたくわづらひて馬に
ても下るましきなれバ、菩堤の城主に
文そへて預をく、楚慶 寉人とて子ふ
たりあり、これハ奥につれてて下る、親子の
別かなしむ、楽天が慈烏失其ノ母ヲ唖
々吐哀音ヲといへり、此ひとこま人な
れバ、不如禽ノ悲ニ、是さへ涙の中だちと
なりぬ
けふまでハおなじ岐路をこまにしき立
別けゝぞなごりをしかる

ほのほのと赤坂とこそやらに、日暮れて来る、

廿七 赤坂ヨリ河手ニ 五里、河手ヨリ売間ヘ四里
   売間ヨリ大田渡ニ 二里 以上十一里
河手、みろく縄手、さけをうるまの町過て
大田のわたりなり

廿八 大田ヨリ神ノ大寺マデ五里 大寺ヨリヲクテヘ三
   里 以上八里
都にありし、名も床く、ふしミの里をとほり
神の大寺にまいりつゝ、をくての町に宿り
定む、
 冬までもをく手ハからぬ稲葉哉

廿九 オクテヨリ中津川ヘ六里
こゝも名におふ大井の宿、駒ばのはしを
わたり、中津川に付ハ 椎のはおりしきて
いひかしきなどす、みつ野ゝ里に妹をゝき
て、とよミしハ妹なり、東路の名こそハかわ

れ、芋の葉汁よし、

是ヨリ信野也、

卅日 中津川ヨリまご目ヘ二里 まご目ヨリ妻子ニ 三里
   妻子ヨリ野尻ニ 三里 以上八里
木曾の山道、河水も落合の宿、妻子の里
に休らへバ、狐狸の返化かとうたがふばかり
けわひたる女あり、山家のめづらかなりし見
物也、里はづれのそバ道をべに坂といへば、

けはひたる妻戸の妻のかほの上にぬりかさ
ぬらしべに坂の山、駒がへり、らてんなど云
難山をこし、野尻にて
 さむさには下はらおこす野尻哉

霜月朔日 野尻ヨリスハラヘ一里半 スハラヨリ荻原ニ
     二里 荻原ヨリ福ジマニ 二里 福シマヨリ宮越ヘ一里
     半 以上八里
すはら・荻原をすぐれば、道のかたはらに大き
なる鳥井あり、いかなる宮ばしらぞととへバ、是

ヨリ奥道廿里ありて、木曾の御獄と申
山に権見たゝせたまふ、こゝよりその瑞籬の
うちなりと云、木曾のかけはしはもと見し
時ハまるきなと打わたしわたしして置ぬれバ
年々大水に流うせなどして、行かひ
も五月などハとどまることあり、太閤馬宿
あらため玉ひ、広さ十間、長さ百八十間
に川の面をすぢかひにわたし、車馬往来ノ
運送、旅人相逢ノ行脚、或イは都に
上り、或イは東に下る、貴賤よろこばずと
いふ事なし、信濃路や木曽のかけ橋な
にしおふ、とハこの事にやと、ね覚の床
巴かふなと詠やる、此渕は義中のお
もひのともゑといふ女房、此河伯の

せひにて木曾義中に思ひをかけ、妻に
なりしゆへに、ともへか渕といへり、又或イハ義中
あハづにてうせにし時、ともえハおん田の八郎
といふ武士を、義中のまのあたりにてうち
見参にいり、いとまかふて木曽に下り、此渕
に身をなけしゆへに、巴がふちともいへり
或イは義中に別れ、あハづの国分寺にて、物

具ぬぎ、忍ひて東国に下りしを、和田小太
郎義盛たつね出し、妻になしぬ、やかて浅井
奈か母なりと云、是も物に記せり、たゞ
いにしへより巴が渕とハ、いふなるへし、野
談ハまちまちなり、ふくじまをも過、宮の
こしに留

二 宮ノコシヨリナラ井ヘ五里 ラナ井ヨリ本山ニ 三里
  本山ヨリ下ノ取諏ニ 四里 以上十一里

やこ原・よし田、とりゐ峠を下れはならゐの

 行末の道をなら井の宿ならバ日高くとて
も枕ゆふべく、せバのこがね山、本山の町
ききやう原を分けつゝ塩尻峠に上れば、冨
士の山はそこ也
 すミの山のひがしなるらし富士の雪

 北は黄に南は青くひかし白西紅井に
染色の山とよミ侍れバ、此富士の山を染
色の山にして、雪にいとしろきハ染色の山
のひがしなるへしとおもひ侍るはかり也、暮
るまで詠をれバ、ふじのけぶりのよこおれて
雲となり、雨となり、たゞ白雲のみあとを埋
めは、峠を下り、取訪の湯本の町に更

闌け人寐付ぬ

三日は湯本に猶とどまる、明はなれた湖
上をみれバ、たゞかゞみをかけたるやう也
 こほらぬは、神やわたりしすはの海
宮めぐりしつゝ、社壇を見るに、廻廊ハ傾キ
高楼ハ破レ、千木ノ片殺朽残テ広前ノ橋板
半ハ改リ、木すゑふりにし森の木の葉、霜を
羽ぶきて鳴からす、八帳破レテハ灯シビ邃カスカナリ、玉ノ簾落テハ
詹内顕タリ、まこと神さびて不覚涙シタ欄
干たり
 あなはふと涙ことハれ神の慮心の外ハことの
はもなし、其日しも、古しへの朋友来リ昔
語リニ傾数盃ヲ

四 下ノスハヨリ和田ニ 五里 和田ヨリ長クボニ 二里半 長
  クボヨリ望月ニ 二里半 以上十里
和田峠ハこゆれども、みちハまだ長くぼ也
漸あしだに付バ、もちみしにかハりて、あれは
てたるさまなり、広野人稀ニシテ尚禽獣不
乱行烈ヲ、田村烟絶テハ更鶏犬ノ 無聞鳴
声ヲ、こその里にとゞまるべからずとて、野経
の露に袖をひたし、もち付の町ニ付、在鮭ケイノ

羮風味満ツ歯頬ケウニ

是ヨリ関東道也
五 モチ月ヨリカルイザハニ 五十里 カルイザハヨリ坂本ニ 十
  五里 以上六十五里
もち月の駒にのり、八幡の町、塩なだを過
岩村田にはかゝらず、北の野中をすぐに
かるいざわまで奥道五十里の間、馬つぎ十一所か
と覚えたり、臼井の峠に上れば、熊野の権
見をうつし奉る社頭在、神鈴ノ声幽にして

道もをくまる山かげに、きねが袖ふる里か
ぐら、折にふれて静也、坂本につき、しばしまど
ろめば、夢メミル  我ガ京落ノ友、拙唱作ル
向東ニ去北行路ノ難、□ニ隔古郷ヲ涙シタ
不乾、我夢朋友ヲ高枕上、破窓ソウノ一宿
短衣寒

是ヨリ東関の上野道也
六 サカモトヨリ安中ニ 三十里 安中ヨリクラガノニ 廿五里
  以上五十五里
そのあたりの家ニ休らへバ、けわひそこなひたる女
の、ほうべにぬりたるあり、行衛をとヘバ、涙にむせび
都より人にかどわされてきぬ、人のかたちよく
生れたるほど、物うきハなしといふ、その女のかほ
ハ、よこに三寸も長クて、出はごに歯がすに付
ところどころはの正躰の見ゆるあたりハ、くちばいろ
にて、はぐきになのはつき、いひつぶはさ

まり、物をいへば、もよぎいろなるいきをふく
書付ていらざれども、かゝる人かどはしぬるハ、人の心
のさまざまなるをしらんためなり、安中、板
はなの町、高さきをとほり、くらが野にと
まる

七 クラガ野ヨリ柴ノワタリニ 十五里 柴渡ヨリキザキニ 十
    五里 キ崎ヨリ引田ニ 十五里  以上四十五里
柴のわたり、高崎新田町にとゞまる

八日はその里におる、其日、新田の町の市の日にて
かざしくる人おゝけれバおくの席につれつれと
してひとりこもる、けふしもあるじ祈祷の日
にて、能化めきたる人来り、弟子三、四人座
頭なども来る、予もひとつ席にゐたり
祈祷過て能化札をかきて、いただかする
を見れバ、天玉九ゝ八十大菩薩と書

珎かなる札のかきやう也、又漸有て、あるじ
夫婦、子をふたりつれて来て、札をいたゞ
かせ予にかたる、此札をさへたまハれバ、一
切家のうちの物やむといふ事なし、分て
えきれいの神などおぢ、おのゝく御札なり
とて、ぬしもいたゞき、あたりの物にもいた
ゞかせて、此子たちに、まじなひしたまへと

いへば、能化硯引よせ、目をふさぎて
おのゝ子らのひたひに犬と云字をかき、女子
のひたひに(?)といふ字を書、又、夫婦をも
御ふでるゐでにまじなひてたべといへば、い
かにも、ふでぶとに、あるじの男のひたひに
大般若と書、あるじの女のひたひに波羅密
多と書つゝ、壽めうてうあんなどいひ

てよろこぶ、予そのゆへをとひ奉れバ、先
おの子らの額に、犬と書申ハ、くらみをありく
に、孤狸などにおそわれず、女子の額に猫
と書たるハ、女子なれば、犬までハいらぬ事と
おもひ、猫と書也、又あるじのおつとの額に
大般若と書申ハ、男のおふきなれバ、かく書也
般の字の心ハ、よく日記に判をすへられ

申ゆへに般とかく也、若字ハ女子の額に猫
と書たれバ、猫の鳴声也、今時鼡のはやれバ
おぢ申様に書也、三字の心随分法也、女
房のひたひに波羅密多と書申ハ、だれも
しり申唯分也、子立ますます般昌の心也
いづれも、師匠のつたへもなし、われらの一作
に、いつも書申とて、こうまんして帰り玉ふ

予昔、熊野の山下ニ、二、三月ありしに、人
の祈祷するミ子あり、祈念のきゝ申
事ハ、たゞ浄蔵貴僧清明がごとし、予巫
子ニとひ侍る、いかなる貴文をとなへてき
たうハするととへバ、巫女のいふ、王の袖ハ二
尺五寸、王の袖ハ二尺五寸と一心不乱に唱え奉れバ、おそ
ろしき物つきもさめ申也と語、予此文

を思ふに、王の袖ニ尺五寸にてハあるまじ、遍
無所住而生其心たるべしと、本文に教
なをしぬ、其より三、四年を経て、又熊野に
下り、巫子の行衛を問へバ、家やぶれたり、いづく
へ行ときけバ、此とし月ハ祈祷きゝ侍らで、
他国にうつりたりといふ、是ハ予本文にをし
へなをしたる故にや、祈たうのきかざりつる

と思ひ合、巫子の不便いうばかりなし、この
事を悔て、能化の物云度ニ尤々と申て
いかにもうけおひ申なり

九 新田ヨリ柴ヤギへ 十里 ヤギヨリ犬ブシニ 二十里
    以上三十里
やぎの里をすぎて、天明といふからかねな
べ鋳在所也、其日ハ犬ぶしの町に宿をかる
あづまちの、さのの舟バしとりハなし、とよミ

しハ、此さのにてハなし、それハ上野なり、こ
のさのハ下野也

是ヨリ下野ノ内也
十 イヌブシヨリトチ木へ 廿五里 トチ木ヨリミ生ヘ 十五里
    ミ生ヨリウツノ宮ニ  二十里  以上六十五里
とミ田、とち木、ミ生ををり、うつの宮に
付、予が旧友庭林と云ものあり、彼宅に
て酒くれて、ふろたかす

是ヨリ那須ノ内也、国ハ下野也
十一 ウツノ宮ヨリウ治江へ 十五里 ウ治江ヨリ狐川ヘ 十里
      以上三十里

うつの宮いづるとき、予、いにしへの友、及乱よ
き鷹、犬の子酬、庭林うつの宮の鷹の
鈴ハ上野の縄の鈴よりよしとて酬、き
ぬ川をわたり、うち江の里を過れバ、大
やぶのあなたなる狐川に付、甲斐のはだ
よしという杉原すく者あり、試筆とて
狐川とハいかに書ととへバ、喜連川と書也

むかし、此里に御所作り始し時、行衛を祝し
てよろこびをつらぬる川と書申也と語ル

十二 キツネ川ヨリサク山マデ廿里
其日、はじめて雨ふり、昼過よりさく山
まで行、みちなかばより雪になり、風
さへそひて、さハがしけれバ、さく山にて雨つゝミ
俄こしらへぬ、人皆いくさ見て矢作と

わらひぬ、寒夜にてねられず、万さびし
  氷る夜やかたハらさびしかり枕
  山河の雪にのこしおく人
  つかねても重き真柴ハ負かへて
百句と思ひ侍るが、ことことにねぶくて、そ
のまゝ枕に付

十三 サク山ヨリ大タハラへ 十里 大タハラヨリナベカケニ 廿里  ナベ
      カケヨリアシノニ  廿里  以上五十五里

大たハらを過、なべかけにて
  大たハら米ハあれども其まゝに煮てやか
まゝしなべかけのまち
  ひだるさよさむきよめしの火をたきて
あたりあたりもなべかけのまち、それより夜半に
あしのの町にきて
  雪霜にめぐりハ流ゝあしの哉

是ヨリ奥州の内也
十四 アシノヨリ白川ニ 三十里 白川ヨリ大田川ヘ 十里  大田川ヨリ
      ヤブ木ニ 十五里  ヤブ木ヨリスカ川ニ  廿里  以上七十五里
しらさわを過、白川の関路にかかる、思へバ遠
くも来にけり、秋風ぞふく白川の関とよ
ミしハ理にや
  白川の関路ハこしつ旅衣猶行末

奥州白川郡也
も人やすむらん、小田川、大田川と云所を
こし、ふませの観音堂に付、こゝに岩かべ

あり、その面に広さ五尺、長さ三尺、ふかさ
二尺ほど岩をきり入きり入して、五百ら
かんをほり付たり、ほりほりのたがひめに、寺など
ハあたらしけれども、らかん石のあたりハ星霜
ふりつゝ、苔地につゞくさゞれ水、石シ間石シ間を
流れきて、其落合、さながら御手洗となる

難ク有目出度地形也、実にや五百らかん
ハ、つくしにも侍る也、それも大師の御さく
是も大師の御作なり、此石のほとりにて
は、うせにし親など見る事ありといひつ
たへたれバ、切紙ヲ招亡親ヲ酉斗酒祭霊鬼ヲ、や
ゝすらひつゝ、藪木の里までと思ひつる
にとゞ□□べき宿もなくていはせに行

とハゞ人にいわせのなミのぬれぬれてわたる宿つげよ
夢のうきはし

奥州田村郡ノ内也
十五 イハセヨリサゝ川ニ 十里 サゝ川ヨリ郡山ニ 二十里  郡山ヨリ高倉
      ニ  十里  高倉ヨリ本宮ニ  十里  以上四十里
すか川を出、さゝ川、郡やま、高倉のこなた
の野の中に、まわり十丈あまりのぬまあり
其中に小鳩あり、里の長に問侍れバ、これなん浅香の
ぬまなりとかたる、又そこに高さ七、八丈の

山あり、是を浅香山といふ、山の井ハととへバ
浅香山のかげさへ見ゆる山の井の、とよみ侍るハ
白川の郡なり、山ハ此浅香山なり、かつ見る
人にこひやわたらん、とよみしハ、此沼のかき
つばたなり、されバ、此浅香山ハ、うたのミちに
心あらん人、よみおかずという事なし
  心あらん人に見せばやミちのくの浅香の

山ののこる□□みを、まことや、つくばねの
かげを思ひ、あさか山のあさからぬ数奇の
人、浜のまさごハよミつくすとも、このミちハつくべ
からず、過しむかしハいふにおよバず、すえの
世々までものこるべきハ、いづくの里人かひとりとして
のこりとゞまるべき、よき人もあしきも有

はつまじき身なれバ、浅香山のあさましき
いにしに、ふりはつる、わが身のありさまの今のとこ
し方行衛おもひつゞけて、野行水ハとゞまら

  世の中にふり行物ハ津の国のながらのはしと
わが身なりけり、と古事今さらのなミだなり
漸そこを□□れて、しバらく来れば

大きなるつ□□□よそおいつねならず、いかな
塚ぞととへば、石□□部少とやらん云人を、こ
としの秋のはじめより、都をくりきたり、をくら
ざるところにてハ、物つきなどになる人おゝく
なやむ事侍るとて、国々に武具をたいして
二、三千ばかりにて、地蔵をくりなどするやう
にして、をくり付たる所にてハ、塚をつき

侍るといふ、都出し時ハ、ひそかなりしが、事
大義になりて、下野あたりにてハ、冶部少夢
などに見し人をおそひ、われをば如此して
をくれといひて、わらにて人形をつくり、具足
かぶとをきせ、たちをはかせ、草にて馬をつ
くり、金の馬□□□を前後にかけ、冶部少
とむな□□□□付をし、又女二人、あかきかた

びらをきせ、□□□さげさせ、冶部
が妻と書付、以[虫くい]の人形六人あおき草
柳の葉にてこしらへ、ふねとをつくり、五色のへいを
立、さきにたいまつ百てうともしつれ、てつ
ほう二百てう、弓百丁、竹やり、さし物まで、あ
かきにすほうそめ、かミをしてふくろとしつゝ、上書に
冶部少と書付、武具のかき物ハ、かミなど木の葉

などにて、武具のていれをして、大きなるつえ、刀
などさしつれ、馬のりハ馬のりかち立ハかち立と小路
を分て、あよませ、こしのそばには唱名念
念仏申上、かね、大鼓をたゝき、竹のつゝをふ
きつれ、所々の巫子、山伏など出会つゝ、夜
番、日番を調、いけにえ、もり物、そなへ上て
とゞまる、[虫くい]ハ湯立をすゝめ、巫子か

ぐらを上[虫くい]ふれハ、物つき口ばしり
ことし慶長六□、田畠のあれたるハわがわ
ざにあらずやなどといふ、涙夫ノ芻狗之未キシハ陳チンノ
也、盛モルニ以シ筮衍ヲ、巾キスルニ以テ文繍ヲ、尸祝斎戒シ、以テ将ヲクル之ヲ及ンデ
其ノ己ニ陳チンシ、行者ハ践苔ノ首脊セキヲ、蘇クサキル者ハ取テ爨イヽカレリ之ニ而
己ニ、将ハ復マタ取而盛ルニ以テシ筮衍ヲ、巾キスルニ以文繍ヲ、遊-居寐-
臥スレバ其下ニ、彼レ不トモ得夢ル(?)ヲ、必ズ且ツ数シバシバ(?)オソワル而己といへり

とにもかくにもわらひのたね、又たゞ人にもなし


コレヨリシノブノ郡也
十六 本宮ヨリ二本マツニ 十五里 二本マツヨリ八丁ノ目ニ
      十五里  八丁ノ目ヨリ大森ニ  十五里  以上四十里
二本まつより、八丁のめに来てしバしやす
みつゝ、大森つきて焼火にあたるとて酒なし
上ハあたゝまりて、不調肺膽ヲ、酒ハ爲百薬ノ長

十七 大森ヨリ□□□□□十五里
雪のふ□□□□やうやうおくミち廿里も来らず

庭坂に□

十八  庭坂ヨリイタヤヘ三十里  イタヤヨリ石ホトケニ
      廿里  以上五十里
忍ぶ文字ずりの石のある所、佐藤庄子
が館の南殿のさくら、月のひかりほしのひかりとひ
のひかり、水のそこにて、としをふるかわづの
聲も雪中にてみえず、跡もなし、板

屋の坂を越ゆるとて
  あずさ弓いたやこしするかりは哉
石ほとけにて
  にんにくのにうわのすがた引かへて石ほ
とけこそちかひかたけれ、又雪深無酒と云
心を
  山風□□時、寒日寄我思、
  無酒□□□、堪悲失客衣

十九  石ホトケヨリ□□□ワニ  二十里
よねざわもそこなれバ、乃膽衡宇ヲ戴チ
欣ヒ載奔ル

※注

解読文中の「□□□」や「[虫くい]」は道中日記本文で虫食い、破損等により読めなくなった部分を表す。また(?)は前田慶次道中日記資料編では印刷されているが、ここで表記できない文字を表す。"
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