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慶次相關材料

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發表於 2015-8-23 16:05:36 | 顯示全部樓層 |閱讀模式
"[慶次相關材料]「米澤人國記 <中・近世篇>」 pp. 47-50

米沢市編さん委員会 著

前田慶次 (~慶長一七)
戦国の奇傑

 万世町堂森山を背にして松心山善光寺が観光の地として脚光を浴びようとしている。その見返りの観音を拝して、堂森山を半周すると程近くに杉林がある。田圃道を伝って杉の影を踏むと、こんこんと湧き出る泉が大昔の姿をそのままに現われてくる。これが「慶次清水」である。前田慶次は、この清水を背にした庵で、慶長十七年六月四日(1612・7/3)飄々として洒脱な生涯を閉じたと考えられる。

 前田慶次又は慶次郎、幼名は宗兵衛。後の名乗りは本によるといくつもあり、何時どのような時に用いられたかは明らかではない。利益、利太、利卓、利治、利貞とあり、一般的には利太、利貞が知られているようである。

 天文十二、三年(1543、44)頃に愛知県は、旧海東郡荒子という寒村で生まれたという。父は織田信長の部将滝川左近将監一益のいとこ儀太夫益氏であるというが、慶次はその庶子であった。たまたま母が前田犬千代利家の兄の蔵人利久と結婚したので養子となり、前田姓を名乗り慶次郎利益(利太)になったのである。義父の蔵人利久は、信長より二千貫文の地(六千石)を給された部将であったし、慶次郎は父の弟の安勝の娘を娶り名実ともに義父の跡を継ぐ運命の星が輝いていたのであった。たまたま義父利久は事に連座して進退を問われ、頭を丸め、二千貫の地を利家に譲って浪々の身となってしまった。

 天正十年(1582)六月二日(七月一日)払暁、天下人への道を歩みつづけた織田信長は、その烈しさの故にか部将の明智光秀の謀叛によって倒されてしまった。その跡を継ぎ天下人への階段を上がった秀吉は、天正十三年(1585)内大臣となり関白となり位人臣を極め、更に豊臣の姓をさえ賜ったのである。

 秀吉の協力者であった前田利家は臣従して越前から越中にかけ大きな範囲を領有することになった。浪々としていた利久、利太(利貞)の父子は利家方に寄せ、七千石の地を与えられた。利久はこの内五千石を利太に分かち与えている。さらに利家は、秀吉の命により越中国の佐々成政を征するや、利太の文武の才を見込んで阿尾城の主として任用したのである。
 永禄十年(1567)から天正十年(1582)迄の利久、利太父子一家の浪々の15年は利家より生活の資が貢がれていたであろうから、京都の一隅にあって堂上貴顕(とうしょうきけん)の公家や文人とも交わっていた。和漢古今の書と親しみ、分けても源氏物語、伊勢物語の秘伝を授けられたという。連歌は当時第一人者紹巴(しょうは)に学び、茶道は千利休の七哲の一人である伊勢松坂城主古田織部正重然(1544~1615)に皆伝を受けたともいわれている。武術については弓馬はもちろんのこと、十八般に通じていた。これも浪々十五年の功罪の一つであろう。

 天正十五年(1587)八月、義父利久が永眠した。嫡男正虎は加賀前田利家に仕え、父利久の封地そのまま二千石を給された。

 天正十五年正月、二十歳の気鋭の青年武将、伊達貞山政宗は、館山の地を相して城池を築く計画を立てた。この頃、島津義久と大友宗麟を調停していた秀吉は、島津義久父子を征すべく二十万の海陸の将兵を九州に送って、日向路と肥後路から鹿児島への道に殺到していた。天正十八年(1590)三月、兵糧・兵力万端の準備成った秀吉は、小田原城の北条氏政・氏直父子を囲み、氏政切腹、氏直を高野山に追放して関東を収め、次いで参陣した伊達政宗を始めとする奥羽の地の仕置と検地にかかった。前田利家も奥羽を鎮撫するため兵を進め、慶次利太もこれに従った。

 慶次利太は、天賦の才に恵まれ文武は為すところ可ならざるはなかった。そして文禄・慶長の二度にわたる朝鮮への出兵は、太閤秀吉の危険を賭けた遊びとも見えたことであろう。そして単身利家のもとを去り、頭を剃って「穀蔵院飄戸斎」と称し、京都に仮の住居を求めて貴賎墨客と交わりを結び、諸大名の邸宅にも遊びに出入りした。そこで文武の道に己を凌ぐ人物として直江山城守兼続に接して交わりを深めたのである。
 それと共に、越後・信濃・佐渡を領有する謙信以来の武と信義を誇る景勝にも接し、寡黙でありながら断々乎として徳川家康の前に立ちはだかる姿を見出したのであった。慶長三年(1698)一月十日(新暦二月十五日)蒲生秀行が会津若松により宇都宮に移封、代わって上杉景勝は越後春日山城より会津四郡・仙道七郡・出羽三郡・佐渡の百二十万石を以って会津若松城に封ぜられた時、米沢城主として三十万石の長井置賜・伊達・信夫の宰配をすることになった直江のもとに客分となった。記録によれば千石の扶禄で、車丹波等と共に組外扶持方という自由な立場であった。

 慶長五年(1600)九月八日(新暦十月十四日)米沢を進発した上杉の軍は十三日(十九日)東村山郡山辺町の畑谷城を攻めて、城将江口五兵衛光清を自刃させた。そして山形への道を進んで長谷堂城を囲んだ。城将志村伊豆守高治はじめ寡兵は、直江の精兵数万を抑え、上泉主水泰綱を戦死させているのである。十月一日(新暦十一月六日)関が原敗戦によって撤退を余儀なくされた上杉軍は、山形城最上勢の追撃を受けなければならない時、殿軍を引き受けたのが前田慶次利太であった。三間柄の大身の槍を以って、群がり来たる最上勢の中に縦横無尽に分け入って戦っては退き、戦っては退く、という見事な戦いぶりであったといわれ、将兵を損ずることがなかったと語りつがれているこの大きな働きで。終美の鉾を収めたのである。その後、堂森山北東のほとりに庵を結んで、風花吟月を友として悠々自適の生涯を終わったと言われている。この万世町堂森の庵で記述されたのが「無苦庵記」で「生きるだけ生きたら死ぬるまでもあろうかと思ふ」という言葉で結ばれている、飄逸自在の文章であるという。

 「慶長六年孟冬従城州伏見里到奥州米沢庄道之日記」と標題のある道中記は十月二十四日(新暦十月十九日)上杉景勝一行に遅れること九日、山城国伏見を出発して十一月十九日(閏十一月十三日)米沢到着の二十六日間の日記で、十一月十五日(閏十一月九日)のところに次のことが記されて感慨深げである。
「しはらく来れは大なるつかあり、よそおひつねならす、いかなる塚そととへは石田冶部よやらん人を、ことしの秋のはしめの頃都よりおくり来り、おくらさる所にては物つきなとになり人おヽくなやむ事侍るとて、国々に武具を二三千はかりにて地蔵おくりなとするようにして、おくり付たる所にては塚をつき侍るという。都出てし時は密かなりしか事大義になりて、下野あたりにては冶部少夢なとに見し人をおそひ、われをは如此しておくれといひて、わらにて人形をつくり具足かふとをきせたちはかせ、草にて馬をつくり金の馬よろひを前後にかけ冶部少とむないたに書付し、又女二人あかきかひらをきせ、ふたをさけさせ冶部か母・冶部か妻と書付(以下略:ここでは石田三成と佐和山城で戦死した三成の父正継・兄正澄・そして母と妻の霊魂送りが述べてある。)」

 前田慶次利太については、慶長六年以降に明らかに記されたものは堂森の草庵で筆をとった無苦庵記であろうが、市立米沢図書館には所蔵されていない。『米沢善本の研究』190ページに次のようにあるのも参考になるであろう。
 或は又、上杉に来投後、本宗前田利長によって大和刈布に蟄居させられ、慶長十年十一月九日(新暦十二月八日)七十三歳で歿したともいう。

(高橋勝郎)"


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"米沢市役所 発行

上杉景勝公を慕った豪傑
前田慶次

 天正も末に近いある年の冬のことでした。天下を統一した豊臣秀吉に重んじられ、要職に累進していた前田家の邸に、仲間(ちゅうげん)が書状をもって入りました。その書状を読み終えた前田利家は、その謹厳な顔をほころばせ、片目の瞳を輝かしています。それそその筈でした。甥の前田慶次利貞は、近年、世を軽んじ人を人とも思わない所業が続き、いくら誡めても、一向に改めようともしないのです。ところがその日の手紙に
 『これまで、叔父上様にご心配ばかりかけて居り誠に申し訳もありませんでしたが、これからは心を入れかえ、真人間になりたく存じます。つきましては心ばかりの粗茶を差し上げたく、拙宅までお越し下さい』
 ということが記してありました。前田利家は、気にかけていた甥の申し出であり、改心の心を誓うというのですから、万障繰り合わせて申し出の日に、前田慶次の家を尋ねました。
 慶次はいともうやうやしく叔父を出迎え丁重に上段の間に招き入れました。もともと慶次は、文学を好み、学問は和漢の書に通じ源氏物語や伊勢物語などの古典を愛し、和歌の道にも優れ、その上、当時流行していた連歌については有名な紹巴(しょうは)という人に学び、また茶道は古田織部に習い、舞の道にも長じて居り、加えて、馬術、武道についても優れているというのですから、その才能の程を窺い知ることが出来ます。
 この慶次が、茶道の技を凝らして、慇懃に茶を献じます。利家は、その素晴らしさに感じ入っていますと慶次は、『今日は殊の外に寒い日ですから、一献差し上げたいと存じます。それで、その前に、お風呂を召されてはいかがでしょうか。』と勧めます。利家は、゛寒い日にはなによりの御馳走"" と喜び、風呂場に下りて着物を脱ぎ、湯殿に入って驚きました。風呂桶の中は氷のような水、辺りの窓は破れて寒風が遠慮なく吹き込んできます。これには、さすがの温厚な利家も、すっかり怒って、家来を呼びつけ慶次を探させましたが、その時既に、慶次は裏門から松風と名づける名馬に鞭打って逃げ去っていたのでした。こうして、前田慶次は、その家を離れて、京都を放浪するのです。

 この前田慶次利貞という人は、凡そ天文十年の頃、尾州海東郡荒子に、滝川左近将監一益の甥、儀太夫益氏の子として生まれ、加賀百万石の城主となった前田大納言利家の兄、利久の養子に迎えられて利久と共に織田信長に仕え利久の弟安勝の娘を娶りました。
 ところが永禄十年、父利久が事に座して信長に斥けられ、その領地を弟利家に譲って頭を剃らねばならなくなりました。それで、慶次も利久と共に退けられ、長い間、野に下っていました。天正十年、織田信長は本能寺に斃れ、翌天正十一年前田利家が豊臣秀吉に降りますと、加賀の石川・河北の二郡を増し与えられました。利家は、兄利久と和して、七千石の領地を与えそのうち五千石を慶次に与えました。さらに利家が越中の阿尾城を手に入れますと、この城に慶次をおきました。

 天正十八年、豊臣秀吉が小田原を攻めた時には利家は北陸道の軍の総督を命ぜられて出陣しましたので、慶次も利家の軍に従って小田原に出陣しました。この頃までの、前田慶次は、何変わるところもないように見えましたが、世がおさまり、型にはまったような生活が続く頃に至って、慶次の行うところは、世の常とは変わったものになっていたのでした。それが彼の本性なのか、世の中が彼をしてそうさせたのか、凡らくはその両者の間に生まれた奇行であったのかも知れません。日常の細々とした掟を堅く守って小心翼々わが身の安泰を図る生活は、彼の大きな器には、あまりにも狭く小さなものであったのかも知れません。そうした鬱憤が、彼の非凡な才知の力を借りて行動に奔(ほとばし)り出るのですから側から見れば、奇人にも見え、誠に奇怪至極なものでした。まして、律儀で温厚な前田利家からは、叱言(こごと)の出るのは当然でした。しかし慶次にしてみれば、叱言が出る程、その天性のうずきを感じ、それが行動に奔り出るのでした。

 京都に出た慶次は、天下の大名・豪傑と交わりましたが、その中で文武各般の道に心が通じ、己を知る武将として、上杉景勝の臣、直江山城守兼続を発見しました。そして、その主である上杉景勝公を知るに至って、これぞ、我が主人とたのみ、わが生涯を托するに足る人物であると感じ入ったのでした。
 前田慶次ほどの文武の才をもつ人であれば何れの大名も、わが家臣にと望みます。八千石、一万石の高禄をもって迎えようと申し入れる数ある大名を足蹴にして、直江山城守兼続に仕官を頼みました。『録高は問わない。只自由に勤めさせてもらえばよい』というのが望む条件でした。

 時は、慶長三年、上杉景勝公が会津に移封された後のことでした。前田慶次利貞は、一千石で上杉家に召し抱えられ組外御扶持方の組頭となりました。この組外御扶持方とは、一風変わった者の集まりでしたから、その組頭となれば、まさに彼に最適の仕官であったのかも知れません。会津で、景勝公にお目通りを得たときには、既に頭を剃って、黒の長袖を着用し、穀蔵院瓢戸斎(こくぞういんひょっとさい)などと称していました。そして、御目見えのお土産として、土大根三本を盆にのせて差し出しました。そして訳を尋ねられますと『この大根のように見掛けはむさ苦しくとも、噛みしめると味が出て参ります』と大真面目に答えるのでした。
 ところがその大根の味の何であるかをあらわす時がやって来ました。時は慶長五年、豊臣秀吉亡き後五大老の一人徳川家康は、次の天下をねらって、上杉景勝公に対して、しきりに上洛を促します。しかし、景勝公は義を守ってこれに応じません。家康が上杉討伐に向かったことを景勝が知るや、白川の南方、革籠原(かごはら)に迎撃せんものと、越後以来の家臣五万、それに浪人の陣に加わるもの数万を加えて、一大包囲戦を企てていました。
 ところが、徳川軍は途中で石田三成の旗揚げを知って引き返し、上杉軍は長蛇を逸してしまったのでしたが、徳川氏と通じた最上方は、背後から米沢を襲う形勢にありました。徳川軍が引き上げた後、直江兼続は急遽米沢に戻り最上の陣が始まりました。

 戦半ばにして、関が原の敗戦により、至急引き上げよとの密使が景勝公から届きました。ここに困難な撤退作戦が始まったのでした。最上軍は伊達軍の支援を得て撤退する上杉軍に襲いかかってきます。流石の直江公もその完全撤退を危んでいられますと、遊撃隊として出陣していた前田慶次は、その馬前に進み出て、『これ程のことは何でもありません』と朱塗りの長槍を構えて敵前に踊りこみ、敵数十人を薙ぎ倒しました。この勇猛果敢なさまに味方は勢いを得、最上軍は恐れて敢えて深追いをせず完全に撤退することが出来ました。この慶次の働きは水原親憲の作戦と共に後々に語り伝えられたのでした。

 また世が治まった後、城下を荒らし回る無頼漢がいました。容貌魁偉、なんともてのつけられない男でした。この話を聞いた前田慶次は何とかしてやろうと思い、その男の鼻毛が長いことを知って、鼻毛を一両で買うから早く伸ばせと下肥をかけてこらしめ、金を与えて改心させてしまいました。

 前田慶次は後には米沢の堂森に住みましたが、庄屋が豪奢な生活をしているのでその新築祝いに招かれると、御家繁昌のまじないといって、新しい立派な床柱を斧で切りつけて、『満つればこそ欠けることに気づけ』と諭すという大胆ぶりなど、残し伝えられた言動は、実に多く、それぞれに噛みしめるほど味があるのです。堂森の邸を、苦しみの無い庵とう意味で無苦庵と名づけ、「生きるだけ生きたら死ぬるまでもあらうからと思ふ」という文章で結ぶ『無苦庵記』。また慶長六年、京都から米沢までの旅日記である『道中日記』、直江公が亀岡文殊堂に奉納された亀岡百首にある和歌など何れも見るべきものを残した前田慶次利貞は、慶長十七年六月四日、堂森でその多彩な一生を終わりました。年は七十前後だと伝えられています。

 愛用の鎧や槍、薙刀、飯茶碗、書籍などがその豪傑の面影を今に伝えています。"
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"中村忠雄 著
置賜郷土研究会 発行

前田慶次郎

 日本一のいたずら者、身は加賀百万石前田利家の甥と生まれながら、真面目な生活をきらい、叔父を馬鹿にして故国を去り、晩年は上杉景勝公の男気に惚れこんで之に仕え、米沢の郊外堂森の地に隠れ住み、浮世を茶化して、「生きるだけ生きたら何時か死ぬるでもあろうかと思う」とうそぶきながら悠々として余生を送った。しかもこの男、ただのこっけい漢にあらず、文武の才に優れ、森は金鉄よりもかたく、名利は行きよりも淡しと云ったあんばい、数々の逸話を残している。

 前田慶次利貞は天文10年(1541年)の頃、尾州海東郡荒子に生まれた。加賀百万石前田大納言利家卿の兄、利久の養子となった。実は滝川左近将監一益の甥、儀太夫益氏の子といわれる。義父と共に織田信長に仕えたが、利久の弟安勝の女と配し、二千貫(約2万石)の地を譲らうとしたところ、永禄10 年(1568年)10月利久が事に座して主信長に斥けられ、封を弟利家に譲り、剃髪して退出しなければならなくなった。そこで慶次利貞も父と共に放浪の身の上となった。これが約15年も続いて、叔父の利家が天正11年(1583年)4月、加賀の石川、河北の二郡を増封されることになり、兄の利久と和し、采地七千石を受け其内五千石を利貞にやり、同十三年五月、利家が越中射水郡阿尾城を手に入れるや、利貞は同城に居座ることとなった。同十五年八月義父利久が没した。同十八年三月、豊臣秀吉の小田原征伐が始まり叔父の利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので利貞もこれに従った。次いで叔父の利家は命によって陸奥地方の検田使を仰付かり利貞は之に随行した。まずここまでは前田慶次利貞という人間も普通の人と何等変わりなく平凡きわまる生涯で何の奇行も脱線もない、殊に彼には前記の通り妻もあり其間に一男五女が生まれたという。
 ところがこの頃から彼の奇行、いたずらの本性が鎌首をもたげ出して来た。彼の奇行は素より其の天性に基づくものと思われたが、彼には養父もあり妻子もあるので無理矢理に枷(カセ)の中に縛られて我慢していたものが爆発してしまい、それからは奇行といたづらの連続で生涯を終わっている。
寒中、利家を水風呂へ入れる

 天正の末年頃は豊臣秀吉が一応天下を統一して一寸少康状態を得ていた時で叔父の前田利家は益々秀吉に重用され、徳川家康に次ぐ威望を持っていた。叔父の利家は慶次が常日頃世を軽んじ人を小馬鹿にする悪い癖のあることを知り、口やかましく之を誡めていたのであるが、慶次にしてみると之が馬鹿馬鹿しくて面白くない、どうしても我慢ができない。何とかして四角四面の顔をしてる叔父の鼻をあかしてやりたい、色々と思案をこらしたあげく、或時利家の御前に出て、「さて私奴も之迄は叔父上に御心配のかけ通し申訳もありませんが、これからは心を入れ替え、まじめな人間になりたいと思います。就いては粗茶一服差し上げたく何日の何の刻、私宅に御出でを御待ち申し上げます」と申し入れた。之を聞いて利家も大に喜び「さては慶次奴も心を入れ替えたか、もとより文武の道に優れ、人間も馬鹿でない彼のこと、もう少し真面目の人間にさえなってくれたらこの上ない頼もしい奴である」と当日は約束の刻限にいそいそとして慶次の家に往った。慶次はうやうやしく叔父を出迎え上段の間に招じ入れた。元来慶次は文学を好み、学、和漢に通じ源氏物語や、伊勢物語などの古典にも通じ歌道にも優れていた。また其の頃流行った連歌を紹巴(ショウハ)に学び、茶道は古田織部に受け、且乱舞にも長じていたというからその才能も窺い知られる。
 まず、利家卿に対し謹んで茶を献じ、さて慶次が申すには「今日は殊の外寒うございます。これから一献差し上げたいと存じまするが、それに先立ち一風呂御召しになっては如何でございますか、丁度加減も宜しいようでございます」「そうか、それはよく気のつく事じゃ、この寒空に何よりの馳走じゃ」といいながら利家は案内をつれて直に風呂場で下り立ち、くるくると衣服を脱いで素っ裸となった。ガラリ戸を開けて、中へ入ると、湯加減と思いきや、氷の如き水がなみなみとこしらえてある。しかも窓の裂け目から寒風が遠慮なく吹き込む始末。さすが温厚の利家卿も怒り心頭に発し、「慶次奴を逃がすなッ!」と供侍の家来ともにどなった。一方慶次は此時迅く彼時遅くというところ、裏口につないでおいた松風と称する駿馬に鞭うって逃れ去りそのまま行方不明となってしまった。彼慶次には家も妻も子も一切眼中になく、只々野放しの自由の天地が欲しかったのだ。四角張った叔父利家の前にかしこまっているのが嫌で嫌でたまらず、とうから見切りをつけていたのであるが慶次も人間である以上、この人間の枷の中から抜け出ることが一寸困難であったろう、叔父の利家が決して憎いわけでもなく又嫌なわけでもないが、せせこましい檻の中に生息することがどうしてもたえられなくなったのであろう。叔父にはこれまでさんざん厄介になった、いま訣別するにしても何がな置き土産が必要である。そこで寒中、叔父を素っ裸にして手をうって喜んだわけである。まことにたわいないいたずらであった。
京都でのいたずら

 慶次の落ち着く先はやはり京都であった。京都は其の頃日本政治の府である。天下の第一人者太閤秀吉を始め、これに次ぐ徳川家康や前田利家、毛利輝元、上杉景勝、伊達政宗、最上義光などの偉い奴達の屋敷が京都に置かれている、慶次は敢て世の中をはかなんで深山の奥や寺の中にこもって遁世生活(トンセイセイカツ)をしようとするのではない、只々しゃじこ張った裃を脱いで、自由奔放の天地にのびのびと生息したいのである。このためか、彼は人の最も多く集まる場所へ出て何かいたずらをしてみたいのである。
 彼が京都へいちおう出るのは前々からの志望であったろう、京都へ出た彼の懐中には若干の貯えがあったことは勿論であろう、叔父の下に居た時は数千石を領する身の上である。少し心掛ければ相当の貯えが何でもないことであった、そして国元へ置き去りにしてきた妻子はまさか餓え死する心配はない、それ程無慈悲な叔父利家ではないからである。
駿馬「松風」

 京都の一隅に仮の宿を決めた慶次は愛馬松風だけはどうしても左右から離さなかった、そしてニ、三人の別当を雇って朝夕馬の手入れを怠らない、そればかりでない、この名馬に贅(ゼイ)を尽くした馬具を付けさせ、いと自慢げに市中をひき廻し夕暮れになると加茂川のへりへ出て馬を洗いながら其の頃流行った「幸若」と称する唄を節面白くうたわせ、唄の終りには必ず「前田慶次が馬にて候」とつけさせるを常とした。名利を土芥(ドカイ)のごとく卑しんだ慶次にしてはこの馬ばかりはよほどの自慢だったらしい。
脇差をさしたままで湯へザンブ

 慶次は毎日が退屈で仕方がない、何か面白いいたずらがしてみたくてたまらない。彼は毎日夕刻になると付近の風呂屋へ行って入浴するのを常とした。その付近は諸国より集まった大名の屋敷があり、その大名に仕える家来共が数多居てこれまた毎晩入れ代り立ち代り入浴にやってくる、何れも戦場で玉薬の臭いをかぎ前きずだか一つ二つは持っていようと云う武骨な輩である。されば彼等が寄る所は必ず戦場の自慢話、やれ敵の大将を突き伏せたとか兜首を幾つ取ったとか有りもしない手柄話が持ち出される。慶次は何時もこれらの輩に自慢話を聞かされるのがおかしくてたまらず、忽ち一策を案じあるとき褌(シタオビ)の上に脇差を一本ぶち込みそのままザンブと計り湯の中に飛び込みただ黙ってジロリジロリあたりをみまわしてをる。何とも得体の知れない変な男である。馬鹿か気狂かわけが分からず脇差をさしたまま風呂へ入るとは古今未曾有である、しかも其の相貌を見れば人品骨柄卑しからず一癖も二癖もありそうな武士である。力自慢の田舎武士共にとってはこの傍若無人の慶次の態度が癪にさわってたまらず、さればと云ってこちらから進んで喧嘩を仕掛けるのも何となく空怖ろしい気もする、そこで彼等もひそかに語り合った結果この上は致し方がない我々も脇差をさして湯に入ろうと相談が一決した。翌晩から彼等はそろって脇差を帯して湯に入ることとなった。慶次はいつもの通りの姿である。そして頃合を見計らって湯から上がって流し湯に腰を下ろし脇差を腰から脱してやをら鞘を払った。すは事こそ起これり、武士共は一斉に湯から出て互いに目配せして抜き合わせようと身構えた。慶次はと見ると顔色一つ動かさず、くだんの抜き放った脇差の中身をスネや足の裏にあて丁寧にゴリゴリ垢を落としている。真面目くさってにこりともしない。よく見ると件の中身は真剣にあらず竹光であった。竹光をもって足の皮をこするとは成る程うまい趣向である。武士共は今更怒るにも怒られず、眼を見合わせてパチクリさせているばかり、掛け替えのない真剣の脇差をあたら湯へ入れて台無しにしてしまった。いたずらにしては随分お念が入りすぎている。
上杉景勝公に惚れ込む

 慶次郎が京都にいた時分、天下人豊臣秀吉が館、伏見邸(あるいは大坂城)にてあるとき諸国から名だたる大名を招き、一夕盛宴が開かれた。元来無遠慮な慶次郎はどこをどう紛れ込んだかこの席の一員としてつらなっていた。宴まさにたけなわ、末座の方から猿面をつけ手拭いで頬被りをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊りながら一座の前へ踊り出る者があった。これなんと、前田慶次郎であった。並んでいる大名たちの膝の上に次々と腰掛け、主人の顔色をうかがい、いかにも人を食った態度である。もとより、猿真似の猿舞の座興であるから、誰一人として咎める者もなく、怒り出す者もいなかった。ところが上杉景勝公の前へ来ると、ひょいと公を避け、次の人の膝の上へと乗っていった。後で慶次郎が人に語っていうには「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて外にあるまい」景勝の前へ出ると威風凛然として侵すべからずものがあったので、どうしてもその膝に乗ることができなかったということが伝えられている。おそらく、表裏反覆常ない戦国時代のこと、こんな時代にあっても蔭も日向もなく心から我が信頼する人の為に義を貫く精神に満ちている武士らしい武士は上杉景勝ただ一人あるのみと見込んでいたものに相違ない。
景勝公に仕う

 京都にて、したい放題の日々を送った慶次郎は他藩にその名が広く知れ渡っていたので、度々仕官話が持ち上がっていた。その申し出をことごとく断り、かねてより学問好きな直江山城守兼続を通じ景勝公へ仕官を求めた。その際、禄高は問わない、ただ自由に務めさせてほしいと云った。かくして彼は一千石の禄を与えられ、組外御扶持方(くみほかごふちかた)の組頭として仕官することになった。元来、この組外御扶持方というのは変わり者の集まりであったから、変わり者の集まりを大変わり者がまとめるということになったわけである。もとより彼はこの職務に熱心であるはずがなく、第一会津へやって来て始めて景勝公に御目見得したときには、既に剃髪し黒色の長袖を着用して穀蔵院ひょっとこ斎と称していた。そして土産として土大根三本を盆にのせ差し出したのだった。彼が申し上げるには「私奴はこの大根のように見掛けは如何にもむさ苦しゅうございますが、噛み締めれば良い味が出てまいります」と真面目な顔でいう。はたしてこの大根の味の意味は最上陣での活躍ぶりで示されたという。
我は小禄なり

 ある日のこと、家中一統の馬揃えがあった。いずれも美しく着飾り、日頃愛用の馬にも立派な装具を付け、どの者もこれ見よがしと競って参加したという。慶次郎はこのとき、黒染めの粗服をまとい、一頭の牛に跨って悠々と出場した。これを見た人々は呆れ返って「馬揃えに牛に乗ってやって来るとは人を馬鹿にするにも程がある」とののしった。すると慶次郎は口を開き「我れは小禄の分際であり、馬を飼う余裕がない。よって牛を飼育しているのであるが、物の用にさえ立てば、馬でも牛でも同じであろう。それをお見せしよう」といい、牛に一鞭を加えると場内を縦横無尽に疾駆してその速いこと馬に劣らず、人々はさすが前田慶次郎であると舌を捲いて驚いたという。
林泉寺の和尚をブン殴る

 林泉寺は元々、越後春日山に在った寺で上杉家が会津に移封後この地に移され、後に米沢へ移された。非常に格式が高く、米沢の寺院の総支配を為す寺であったため、景勝公の帰依厚く、住僧もそれをかさに常日頃から尊大でおり、接する者いずれも小憎らしく思った。それを伝え聞いた慶次郎はいつものいたずら心を出して、身を巡礼の姿に変えて早速林泉寺を訪ねた。境内をうろうろし、当の和尚を良い風情であると褒め称えた。ここで一句と、和尚に筆と紙を借り、見事な漢詩をしたためた。これを見た和尚は大いに驚き、庫裡(くり)の間へと招き入れ、茶をたてた。いろいろな話をし、ふと慶次郎は座敷の隅に置いてあった碁盤に眼をやり、これまた褒めちぎった。和尚は気をよくし、一局御指導願う慶次郎の申し出を快く受けた。勝った方が負けた方の頭をそっと一つ叩くという賭けをし、対局が始まった。初めの一局は和尚の勝ちとなり、慶次郎は「それでは私の頭をお打ちください」という。和尚は断ったが、頑として聞かぬ慶次郎に負け、それではと頭を軽く叩いた。今一度と云うので、改めて対局となった。すると先程と打って変わり、別人の如く今度は慶次郎の勝ちとなった。和尚は潔く頭を突き出し、「さあ打って参れ」という。「和尚の頭を打ったら仏罰が当たり申す」といって慶次郎は打とうとしない。和尚が「それでは困る。遠慮なく打ってくれ」というので、慶次郎はやにわに立ち上がり鉄拳を固めて真っ向から和尚の眉間に打ち下した。すると和尚はうーんと唸って気絶した。それ水を持って来い、薬じゃ、医者じゃと寺中大騒ぎとなった。このどさくさ紛れに慶次郎は姿をくらましてしまったという。
最上陣に勇名をあらわす

 時は慶長五年(1600年)九月八日のこと、米沢三十万石の城主直江兼続公は兵二万を率いて山形城主最上義光征伐の為米沢城を出発した。其の時に前田慶次は遊撃軍として直江公の手に属して出征した。
 最上義光と云う男は腹黒い男で表面は徳川家康に通じながら裏面では上杉軍の襲撃を怖れて書状を景勝公の下に送って他意なきを示した。太閤亡き後は五大老の一人徳川家康が権を振るい第二の天下をねらって、会津の上杉景勝に対してしきりに上洛を促したが公は頑として之を拒絶し、家康の軍が若しやって来たなら白川の南方革籠原へ四方より追いこんで徳川軍を皆殺しにしようと自ら数万の軍を率いて若松城を出て白川の西南長沼に陣し、直江公は兵三万を率いて野州塩原に陣した。然るに景勝征伐を名として大坂城を発した家康は江戸城へ立ち寄り小山へ進んで待機しており、先鋒秀忠は宇都宮まで進んで来たが、それ以上は一歩も出てこない、両軍只睨み合っているばかりである。ここが徳川家康の老獪極まる所で、正面から進んで来たなら勝ちは無論上杉方にあったであろう。当時上杉家には謙信公以来の譜代の勇士が五万あり外に諸国から集った浪人三、四万もあったと云われる、しかも決死の上杉軍に向かっては到底勝算がなかった。上杉氏の背後には仙台の伊達政宗があり、山形の最上、越後の堀氏があったが、上杉方ではかねて常陸の佐竹と協力して家康の軍を挟撃せんとする計画があり、形勢予断を許さないものがあった。
 然るに八月四日に至り家康は急遽小山の陣を抜いて江戸城へ引き上げ、ついで軍を率いて上方へと向かった。当時上方において石田三成が家康討伐を名として徒党を糾合し挙兵の準備をさをさ怠りないとの警報がしきりに到ったからであった。このときに直江公は景勝公に対して徳川追撃を進言したが、景勝公は之を聴きいれず、長蛇空しく逸した観がある。関ヶ原の大合戦は九月十五日であり、石田方の大敗軍となり、天下の大権は自ら徳川に帰してしまったが其の関ヶ原戦の直前、最上征伐の軍が起こったのである。直江公は徳川追撃が許されず其の腹癒せに最上を征めてやろうとしたものである。直江公は軍を率いて荒砥の先、萩の中山口より進み山形の居城である畑谷城(現東村山郡作谷沢村)を包み四方より取り囲み向の山上より鉄砲を撃ちかけたので同月十三日城が落ち城将江口光清は自刃した。
 一方掛入石中山口より進んだ別軍は直に上ノ山城に迫り、畑谷城を陥れた直江軍は直に長谷堂城を攻撃したが両城共頑強に抵抗して未だ陥落しないが最上村山地方に散らばっている白岩・谷地・寒河江・八沼・左沢・山辺・延沢・長崎・五百川などの諸城は悉く陥落して、残るは山形の本城と上ノ山・長谷堂の二城だけとなり、最上氏の運命風前の燈もただならぬ有様となった。然るに関ヶ原において石田軍大敗の報が若松の景勝公の下に入り、直に直江軍への通報となり即刻軍を引き揚げよとの命令に接した。それが九月二十九日の事であった、今日からみると随分のんびりした話であるが交通不便の当時まことに止むを得ないものがあったろう。これによって直江公は停戦の命令を発して十月、陣小屋を焼き払い敵の追撃を退けながら同月六日米沢へと引き揚げたのであった。この役において遊軍として出征した慶次の働きぶりは、一際目立って衆目を驚かすものがあった。殊に見事であったのは直江軍引き揚げに際して常に殿を務め、槍を揮って遊撃軍を退けたのは見事なものであり、永く人口に膾炙(カイシヤ)された。彼が着用の甲冑は朱塗りで一種独特の型を持った珍しいものであり、後上杉家の有に帰し上杉神社の所蔵品となった。

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郊外堂森に閑居

 関ヶ原戦後は天下の大権は全く徳川家康に帰し、反徳川の諸大名は直接関ヶ原戦に関係あると否とに拘らず、或いは潰され或いは削封の憂き目に遇った。上杉家は会津百二十万石の大封から直江公の旧領たる伊達・信夫・米沢の三十万石の大名に偏せられた。上杉家の家臣のうちには勝敗を度外視する主戦論者も少なくなかったが景勝公は之をおさえ遂に家康と和議を結ぶこととなったのであった。
堂森時代の奇行

 時に慶次は景勝に従って米沢へ移り禄僅かに三百石を受け、郊外堂森(米沢市万世字堂森)の地に隠居し悠々琴書を友とし、風月を楽しんで余生を送った。上杉氏削封後は帰属していた浪人共多くは暇を乞うて四散したが、慶次のみは高禄にて召抱えんとするものがあっても悉く之を退け飽迄景勝と運命を共にして少しも悔ゆる所がなかった。彼は其の居を「無苦庵」(ムクアン)と称し、自ら筆を執って記を作り之を壁にはりつけた。
無苦庵記

 抑も此の無苦庵は孝を謹むべき親もなければ憐むべき子も無し、心は墨に染ねども、髪結がむツかしさに頭(ツムリ)を剃り、足の駕籠かき小者雇はず七年の病なければ三年の灸(モグサ)も不用、雲無心にしてくきを出づるも亦可笑し、詩歌に心なければ月花も苦にならず、九品の蓮台に至らんと思ふ欲心なければ八万地獄に落る罪もなし、生きるだけ生きたらば死ぬるでもあらうかと思ふ。
兜をむくる

 慶次は毎日が退屈でたまらず、何がな例のいたずらがしてみたくてたまらず、思案をこらしているうちに忽ち一計を案じて、堂森善光寺の門前に次の通りの高札を立てた。

 来る何月何日何刻当寺境内において兜をむくってお目に懸け可申、
 縦覧勝手たるべき者也            前田慶次

 これが大変な評判になって、「兜をむくるとは大した事だ、どんな事をするのか見たいものである」と近郷近在から誘い合わせて善光寺境内へやって来る、たいそうな人出である。集まった多くの人々は今か今かと待っているが肝腎な慶次其の人がなかなか姿を現さない、はてどうした事であろう、まさか吾々を馬鹿にしたわけでもあるまいに、と口々に罵りながら待つこと小半時(約1時間)漸くにして当の慶次が姿を現し、群集に向かって云う「今日は拙者の芸当を皆様にお覧に入れる筈であったが、昨晩より引き続き腹痛みのため、とてもとてもこの珍芸をお目に懸けるわけには参らぬ、就いては来る何日には必ず間違いなくお目に懸けることに致そう」と云うなりさっさと引き取ってしまった。次の約束の日には前回にも増して善光寺境内は押すな押すなの人だかりである。そして寺の玄関前には立派な台を据え、其の上に明珍(ミヨウチン)作の見事な兜がうやうやしく飾られている。此度は約束の刻限に慶次はちゃんと姿を現し、さて云う「只今からこの兜をむくって御目に懸ける。よく眼を見張って観ているように」と如何にもうやうやしく述べた、群集はかたづを呑んで見ていると、慶次はづかづかと兜をのせてある台の前へ近づき、件の明珍の兜に手を懸けた、そしてくるりと向きをかえて後ろ向きにした「さァ、これで兜むくりの芸が終わったのである」と云った。群集はあっけにとられて、ナーンだ人を馬鹿にするにも程がある、と今更怒るに怒られず、はては大笑いしながら慶次様にうまく一杯喰わされたと云いながら帰っていった。
朝から晩まで南無阿弥陀仏

 慶次郎が堂森で使っていた僕に吾助という若者がいた。この若者、従順であったがあまりに仏教に凝りすぎて、寝ても起きても「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える癖があった。慶次郎はこれがうるさくてたまらず、かといってガミガミと頭から叱りつけるのもおもしろみがない。そこで一計を案じ、格別用事がないのに朝から吾助、吾助と呼びつける。吾助は「ハイ、何御用でございますか」と返事をすると慶次郎は別に用はないと答える。そしてまた吾助、吾助と呼びつけるのだった。さすがに吾助もこれには全く困り果て、ある日改まって「旦那様、私の名を御呼びになるのは結構ですが、格別用もないのに御呼び続けになるのには全く閉口致します。これからは御用もないのに名を御呼びになるのはやめていただくよう御願い申し上げます」と申し出た。すると慶次郎は「そんなら拙者からも云うて聞かせることがある。お前が仏様を信心し、御念仏を唱えるのはよいが、寝ても覚めても屁をひっても御念仏を唱えてはさすがの阿弥陀様も返事がしきれないであろう。阿弥陀様に御迷惑を御かけしてもよいのか、どうじゃ吾助、この道理わかったか」と丁寧に諭したので、「ハイ、分かりましてございます、以後気をつけますからこれまでの事はどうぞ御許しください」と答えて、それからはぴたりと念仏を唱えなくなった。
鼻毛をこらす

 其頃米沢城下の町に一人の無頼漢が時々現われて、つまらぬことに因縁をつけ喧嘩を売っては何幾の酒手をゆすり取るのを常習とした。其男容貌魁偉(カイイ)で殊に鼻毛を長く延ばしているので、あだ名をハナゲと呼ばれていた。
 かねてこの事を耳にしていた慶次はある日のこと町中で偶然このハナゲに出遭った。そこで「あーこれこれよい所で出遭った、かねがねうわさに聞いていたが、実はそちに頼みがあるので、聞いてくりやれ」見れば立派な風采をした一人の武家が従僕を召し連れて、こう言葉を掛けるので、ハナゲは立ち止まって「私奴に何か御用でございますか」と云うと。「実はナ、そちの鼻毛が欲しいのだ。それには少し訳がある。人間のものでなければ役に立たない、そちの鼻毛は実に見事である、どうかそれを私に売ってくれぬか」と慶次は言葉をかけるので例のハナゲは「ハァ、何の御入用やら分かりかねますが、売ってくれと御仰るなら売って上げないものではございませぬ」と答えた。「そうか承知してくれるか」と傍らへ近寄り、つくづく其鼻毛を見ていたが「実に見事な鼻毛であるが惜しいことに少し短い、もう少しの所じゃ、それでもう一月程経ったら丁度よく伸びるだろう、そうしたら金壱両で買ってとらす、今日のところは手附金として半金の二分(壱両の半分)を渡す」と云って懐中から壱分銀二枚を出して渡し、一ヶ月程経ったら堂森の前田の家を訪ねて来いと云った。何しろ其頃の金壱両といえば相当の金高であり、米沢では両に米が十四、五俵も買えた頃の事であるから、ハナゲは大喜びで二分の金をおし戴き、必ずお尋ね申すと約束した。
 やがて一ヶ月も過ぎた頃ハナゲは堂森の慶次宅へいそいそとやって来た。慶次はこれを出迎えて「ヲ、よくやって来た、どれ鼻毛を見せろ少しは伸びたか」と云いながら鼻毛に見入っていたが「ムウ、だいぶ伸びたようであるが、惜しい事にまだもう少し伸ばしたい、そこで今日は少し肥料をやる、そうするとズンズン伸びるから暫時辛抱せよ」と云って庭に莚(ムシロ)を敷き、ハナゲを仰向けに寝かせ家来二、三人に命じて其手足をしっかりと抑え付け、他の家僕に命じて「例の薬を持って来てかけてやれ」と云った。家来共は其通りにした、ハナゲは何をされるやら理由が分からないが金が貰えるのだから暫時辛抱しようとされるままになっていた。何をするかと思いきや薬を持って参れと命じられた一人の下僕は裏の大便所から大きな柄杓に黄金水を波々とたたえて持ってきた。そして仰臥しているハナゲの顔に真っ向からジャアジャアと注ぎかけた。「少し臭いが肥料だから辛抱せよ」と云いながら後から後から何杯も肥料を注ぎかけるのである。さすがのハナゲも全く参ってしまった。武士に対してへたな抵抗などしようものならそれこそ一刀両断にされる怖れも多分にある、はてはハナゲも泣き音を立て「助けて!」「助けて!」と叫ぶばかりであった。それを見た慶次は従僕に命じ肥料もだいぶ効いたようであるから手を放してやれと命じたので漸くに手を放してやった、顔から着物から黄金水でグショ濡れになった。ハナゲはよろよろと立ち上った。そこで慶次はハナゲにむかって改まって云う「これハナゲとやらよく聞くがよい、貴様はかねて僅か許りの力を自慢にして町へ出てよく町人や百姓をいじめて彼等を困らせてをる由、今日はその懲らしめに少しばかり薬をやった迄である。これから以後はふっつり心を入れ替えて非行を改めるかどうかじゃ、今後万一之迄のような悪い事をしたなら、それこそ一刀両断、そちの首を胴にはつけておかぬぞ、どうじゃ、今日限り改心するか」ハナゲは只もの恐れ入って「悪うございましたどうぞ御勘弁下さい、今後は決して悪い事は致しませぬ」と誓った。慶次は御苦労賃だと云ってポンと二分銀を投げ出して与えた。ハナゲは金を押しいただき何べんも頭を下げて引き取った。ゴロツキを戒めるにも約束の金はちゃんと与えてやった所は如何にも慶次らしい。
床柱を斧でひと打ち

 堂森村の旧家で太郎兵衛と称する肝煎(キモイリ-村長のこと)がいた。この太郎兵衛なるものが、身代も年毎に太ったので或る年古い家を新しく建て替えて見違えるばかり立派になったのでかねて懇意な人等や親戚などを招待して新宅祝をやった。このときに慶次は一番の上客として招かれて宴席に列なった。主人太郎兵衛の挨拶があり、これから盛宴に移ろうとした時に、つと座を立ち上がった慶次は改まって述べるよう「此家の新宅祝を開くに当たって御家繁昌、無病息災のまじないをしてつかわす」そして勝手から一丁の斧を持ってくるように命じた。何をやり出すのか分からないが兎に角命じられるままに斧を差し出した。すると慶次はずかずかと上段の床柱の前に進み出て、エーッと一声高く叫ぶと見る間もなく件の斧を振り上げてその床柱の真中にハッシとばかり伐りつけた。一座は只々あっけにとられて見ているばかり、新築したばかりの床柱に大きな傷跡をつけるとはいかな狂人でもめったにやる事でない。中にもこの家の主人太郎兵衛は烈火の如く顔を真っ赤にして怒り出した。暫くじっとして一座の様子を眺めていた慶次はおもむろに口を開いて云うよう「さて主人太郎兵衛よ、又一座の人たちもよく心を静めてわしの云うことを聞くがよい、すべて世の中のことは満つれば欠けると云う事が間違いのない法則である。この家の主人も近頃大分貯め込んで家を新築したことはまことに目出度い事に相違ないが、扨て人間と云う者は其処が肝腎、何より大切のところである。是で沢山だと安心した時は既に頂点でそれから後は運が傾く一方思いもかけない災難が後から後から降りかかって来る、そしてアッとい間に身代がつぶれ一家滅亡となるのだ。太郎兵衛よ能くここの道理を考えよ、決して有頂天になるな、いまこの傷ついた床柱を朝晩眺めてわしの言葉を思い出すがよい、それこそ無病息災お家繁昌の基いである」と懇々と説いたので主人太郎兵衛も成る程もっとも至極の御言葉と肝に銘じて忘れなかった。太郎兵衛の家は其の後永く続いたと云われる。慶次のいたずらにはそこに何か意味が含まれている。
安田上総介を招待

 景勝公に仕えた勇将猛卒数ある中に安田上総介能元の名が殊更に顕れている、彼は上杉家譜代の臣で若い時分景勝公に従って新発田城主、新発田尾張守重家を攻めたときに新発田の反撃に遭ってこの時に能元は殿(シンガリ)をつとめて奮戦し、敵兵の包囲に陥り槍を以って太股を刺されそれ以来足が不自由になった。それでびっこ上総の名は高くなった。会津百二十万石時代には会津三奉行の一人に挙げられ、政治上にも相当の手腕を発揮している。関ヶ原戦後は勝敗を度外において老獪家康と一戦交えようとする主戦論者の一人であり、景勝公に抑えられて漸く断念したほどである。晩年大阪陣の時も従軍して目立った働きを為した。一面彼は文学の嗜み(たしなみ)もあり、前田慶次とは殊更に深交を重ねた。安田家は後、先祖の姓である毛利を名乗るようになったが、上杉家が十五万石に削封された後も二千石を領し禄高においては上杉家一の高禄であった。 ある年の春の晩れ、堂森の慶次は能元を招待した。四方を取り囲む高山の雪も次第に消え尽くし、近山にはもう雪のかけらも見られず吾妻や飯豊の遠山にはまだまだ白いものがまだらに残ってはいるが、里はもう青草がぽつぽつ生え出し、木の芽も早いものは淡禄色に萌え始め、微風がそよそよと吹き渡ると如何にも春らしい気分となる。旧暦十一月からもう雪の中に閉じ込められ、春になっても三月一杯は残雪に悩まされる米沢でもこの頃になると如何にも春らしい気分である。冬と春との堺がはっきりと顕れる節である「山桜が盛りと咲き乱れてをる、此の好時節に何はなくも一献汲み交したい、どうぞ御出でを待つ」との招待の書状を手にした能元は大いに喜んで僅かの近臣を供に馬上で慶次の家を訪れた。その家に着いてみると悉く戸締りがしてあり、戸を叩いても返事をする者もいない、さては慶次奴に一杯食わされたかと憤慨しかけた折、頭の上から安田殿、安田殿と呼ぶ声がする、何者ならんと首をもたげて見るとこわいかに庭の柿の大木の上に枝につかまっているのが他ならぬ慶次其の人であった。「前田ーッ、そんな所で何をしておるのだ早く降りて来い」と大声に怒鳴った。慶次はするすると木から下りて能元の前に立ち一礼してから「今日は折角お招き申し上げたのに格別の御馳走もござらぬそれで雁(カリ)の吸い物でも造ろうかと考え先程から木に登って雁の飛んで来るのを待っていた次第でござるが、あいにく今日は一羽の雁も飛んで来ない、まことに申し訳がござらぬ」などと白々しく云うのであった。其の頃米沢地方には鶴もいれば雁なども飛んできたのであえて珍しくはないが雁の吸い物は珍味に相違ない、無論春の事であるから帰雁である。彼此してをる内に向こう山の麓に幔幕をめぐらし、其の中から笛や太鼓などの囃し声がやかましく聞こえてきたので、能元は何事ならんと耳をそば立てていると、慶次は彼の手をとり「安田殿お待たせ申した、いざ、こうござれ」とばかり、かの幔幕の中へ案内した。導かれて能元が中へ入って見るとそこは如何に数十枚の莚を敷き詰め、其の上に一面に緋の毛氈(モウセン)を布べて珍味佳肴を山の如く並べ酒は泉の如しという有様、先程の囃しの音は慶次が雇って来た芸人共であった。そこで能元は初めてわけが分かり、さすがは慶次だけのことはあると改めて喜ぶやら褒めるやら、お互いに心置きない間柄、終日御供や芸人共も交えて呑めや唄えや、どんちゃん騒ぎの無礼講、日暮れ頃能元は帰路についたのであった。常日頃には至って質素な暮らしをしている慶次ではあるが、こんな時には銭をケチまずに散財したものとみえる。
亀岡文殊、詩歌の会

 慶長七年四月二十七日のこと、即ち景勝公が会津から米沢へ移った翌年である、直江城州公の9主催で亀岡文殊堂において漢詩及び和歌合わせて百首を詠じてそれを奉納した、其の時の遺詠が今も文殊堂に珍蔵せられ、戦国の世の佳話として永く伝えられている。当日席に列した者は京都の僧侶泰安を始め、安田能元、岩井信能、前田慶次、春日元忠、大国実頼、宇津江朝清、来次氏其の他の人々で其の時の吟詠並にその筆蹟は今も保存されている。其の時の慶次の詠歌は

  樵路躑躅
 山柴の岩根の躑躅かりこめて
   花をきこりの負ひ帰る路
  船過江
 吹風に折江の小舟漕消えて
   鐘の音のみ夕波の上

 彼の遺著として名高いものに慶次自筆の「道中日記」がある、これは慶長六年慶次が京都より米沢に下る時の日記で当時の風俗が偲ばれ、珍中の珍とされている、今幸いに米沢図書館の所蔵となっている。 慶長十七年六月四日、慶次は堂森の肝煎太郎兵衛宅において終りを遂げた(或いは堂森善光寺ともいう)享年明らかでないが七十歳前後であったと思われる。遺骸は北寺町一華院に葬られた。或いは堂森善光寺とも云う。前述生前着用の鎧の外に遺品として、槍、薙刀、飯茶碗、韻書数冊等があった。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:06:03 | 顯示全部樓層
"「萬世郷土史」 pp. 233-237
明治百年記念事業実行委員会 発行

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第三節 前田慶次と清水

 前田慶次郎利大という武将は、加賀藩主前田利家の兄の前田利久の養子であるから、甥にあたる。

 学問、武技は勿論、謡曲、舞踏、囲碁、生花、茶道など全く百般に秀でていたといわれる。彼の彫った能面(堂森の鈴木慶一郎氏蔵)を見ても、素人はだしの、すぐれた作品である。

 気性は、豪放で小事にこだわらず、諧謔(かいぎゃく)を好んで、人の意表を衝くことが多かったので、一面変わり者と言われる程であった。

 叔父の前田利家は、有名な加賀百万石の基礎を作った名君で、初め、織田信長の家臣で、前田犬千代といい、豊臣秀吉とは同輩であった。天正十年六月に京都本能寺で信長が討たれてから、豊臣秀吉に臣従したが、大そう義理固い立派な武士で濁五大老の中では、上杉景勝公と共に、豊臣秀吉からは頗(すこぶ)る信頼されていた。

 慶次は慶次で、勝手気侭な行動が多いので、叔父の利家からはいつも叱咤が出た。或る冬の寒い日、慶次はいつもお世話になり、迷惑をかけているから一献さし上げたいからと珍しく叔父利家を招待した。利家はこれはこれは殊勝な事かなと、慶次宅を訪れた。先ず慶次は、優れたお手前で、お茶をいれ、お酒の前に一風呂如何ですか、大分寒いひですのでーと叔父に風呂をすすめた。叔父は、これは気の利いた奴じゃと、風呂を貰うことにした。慶次は、風呂場に案内する。利家は着物を脱いで風呂場に入る。と、これはどうした事かー風呂場には火の気はなく、風呂は水風呂、寒風は吹き込む。利家は大いに怒り、慶次を呼びつけたが、時既に遅く、慶次は、とっくに家を抜け出て、行衛知れずにまった。

 こうした彼が、京都で、これなら主人にしたいと目を付けたのが、上杉の家来の直江山城守兼続であった。その人柄にすっかり惚れ込んだ慶次は、「禄高に希望はないから自由に勤めさせてもらいたい。」ということで、景勝公の家来となり、組外御扶持方の組頭を勤めることになった。

 景勝公にはじめてお目にかゝった時、頭を剃り、黒の長袖を着て、穀蔵院瓢戸斎などと名乗り、お土産には土大根三本持参した。そのわけとして「この大根のように見掛けは悪くとも、噛みしめると味が出て来る。」と大まじめに答えた。

 関が原の戦いや、最上の戦いには目覚しい活躍をした。

 その後、堂森の山陰の、鈴木さんと坂野さんの間の辺に居を構えた。この住居を、苦しみの無い安住の場所という意味で「無苦庵」と名付け、「無苦庵の記」という本や、慶長六年に景勝公のお供をして、京都から米沢の旅日記「道中日記」を書いたり、又、直江公と共に、亀岡の文殊様に奉納したすぐれた和歌などが残っている。

 又、堂森の頂上には、お月見をしたと伝えられている月見山という平地があり、慶次清水は、前田慶次が発掘したというので、この名前があり、下の方の田んぼの用水として、大切である。

 慶長十七年六月四日に歿したが、生年月日が不詳の為七〇才前後といわれている。

 北寺町の一華院に葬ったが、今は、廃寺となって、寺も、墓も不明である。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:06:09 | 顯示全部樓層
"「米澤古誌類纂」 pp. 15-16
石田勘四郎 著

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前田慶次郎利貞(一本利太)墓(慶長中千石)堂森善光寺にあり北寺町一華庵に葬とも未た詳ならす

慶長十七年六月四日堂森に死す

利貞は加賀候前田大納言か甥なり父は大納言利家か兄孫次郎と云なり

慶次郎は無類の滑稽ふり或日慶次諸大名の會に合勸の餘り小舞を舞けり慶次戯れに尽く諸大名の膝へ尻掛て試るに獨り覺上公のみ犯すへからさるの尊氣あり慶次退きて欺して曰く嗚呼日本國内に吾主とする者は獨景勝殿のみと云て遂に來り仕へし者と云脇差を負來る人是を不便者とて讀て足下ふる貧土そやと問ける慶次いやとよ能見へと云にそ近く見るにふの字を武と濁て點をせり是武邊者なり

又一日素袍を着て朝す見れは無紋なり覺上公其故を問玉ふ慶次又見玉へと云にそ能見玉へは僅に虱の紋あり一座咄と烏帽子を傾け笑う壺の會ゑりとも慶次一向笑はす

又覺上公公米府は御引き移りの時浪人小臣譜代の外は皆暇を出されけれとも慶次獨り其儘召仕れ下され候へと五百石にて米澤へ供奉したり然處に幣を厚ふして方々の諸侯より七千石にて抱えゆへきや又は一万石にて抱度由にて招かれしかとも慶次關東陣にて諸大名を見限りたり石田冶部か負亡ると齋しく或は亡ほされ或は降参し追従輕薄扨々男は一人もなし景勝殿斗りは始より終迄操を立て弓矢と取り臂を張りし事天晴天下の英雄哉我主には景勝殿より外はなしとて始戸の内に住しけるか後には堂森善光寺に蟄居す今も堂森山の傍らに慶次淸水とて一窟の湧出るあり

又其頭佛を信して朝暮れに唱或日慶次蒼頭か名を呼て止ます蒼頭堪へ兼ねて其の故を間慶次去はとよ汝も佛の名を呼て止ます佛も亦囂しき筈なり以て少しく呼ふとを止めよと

又其比しも櫻馬埒に役馬のありけるに諸士大夫華かに馬飾して騎る中に慶次郎牛に騎て出ける見る者堵墻の如し打支連て笑合へりも然れとも慶次一向に惡びれせす我は元より不肖者にて馬は持たぬ者なり云によりて牛を騎り付け置けりと云ふ騎けるに随分馬の如く仕付置けり又或日慶次安田上総か使來る由空聞して小姓に言様は安田か使來らは菓子には焼米を出せよと謂ひ付け置く間もなく使者來る小姓の如く菓子として焼米を出したり安田か使焼米を食ふ最中慶次能く見濟し突と障子を開き如何に安田か使かと云は普通様の者なりせは驚き周章て咽返り杯して笑しかるへかりしを安田か使者思の外一と曲ある者と見へて含たる焼米を稍暫く嚼食て後に貌を整ひ手を揖して最と静かに使者を申けるにその慶次以ての外白げられて入にけり慶次尚口惜しくや思けん安田の使者に書状を臾へて遣しけるに○?(コウ)杯の文談あり吾此比其文章を見るに成程聞し如くなり然れ共利貞は弓矢取りても越度を取らす風佳に於ても亦?(ギョウ)下の才なり今も猶興譲館に忙僻に書たる春秋の註疏或は列子詩篇の諸本あり

往年最上の陣に味方引色に成つる容子を最上勢興あるとに思ひ破竹の如に遂來り爰に取切り彼所に現れ散々に味方を挫きしを直江大に怒り奴此そ生て帰ん腹切て失せんと云しを慶次微笑是計のとに腹切て死する様や有と云儘に鎗押取て最上勢に突て入無二無三に駈立れは最上勢は一と先に是にそ引きける

また利貞無苦庵の頌を賦して自ら樂む其辭に曰

抑も此無苦庵は孝を勤むへき親もなければ憐れむへき子もなし心は墨に染ねとも髪結ふか六かしさに頭を削り足の駕籠舁き小揚者雇はす七年の病なけれは三年の蓬も用ゐす雲無心にして岫を出つるも亦笑し詩歌に心無れは月花もくにならす九品蓮臺にいたらんと思ふ欲心なけれは八万地獄に落へき罪もなし生きるまで生きたなら死するでも有ふかと思ふ

亀岡百首の内

    樵路躑躅
    山紫の岩根の躑躅刈こめて花をきこりの負帰る路

    船過江
    吹風に入江の小船漕消へて鐘の音のみ夕波の上
    花使東風開 利貞夢中句

利家の兄前田蔵人利久養子賽は瀧川義太夫か弟なり人となり文学才藝人に超へ殊に勇氣もあり
大納言或日叱りけれは慶次郎却て是を軽んし嘲り此家には久しく居まじとて大納言を請待し水風爐へ欺き入れ裏門より松風と云へる早馬に乗りて會津を差して遁來る
林泉寺和尚を碁のかけにて眉間を打竹刀にて足の垢をこそけ又組外扶持方は甚豪放なる者共にて頭も扱余したる故組外へ反出されたる者共なり慶次も似寄りたる者なれは五百石にて此者共の組頭を勤るなり慶次元より家宅なく善光寺に借宅せり中此善光寺の前の土蔵に住めり後には村の肝煎太郎兵衛と云者の家に住て遂に爰に果たり此太郎兵衛が家に慶次か陣皷とて古皷今に殘れり
清水は慶次郎遺言にて死後其屍を水底へ沈めたると云小池の谷地淸水あり
無苦庵は徃昔花澤の東八幡原の古戦場に獨り席を設け物表に亭々として塵埃の外に浮遊して以て月に嘯きはな無苦庵頌中に
頭をしりの下に手の小遣不奉公もせすとあり苦にならすの下に寝たきときは晝もいね起きたき時は夜も起きるとあり"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:06:15 | 顯示全部樓層
"城下町ふらり歴史探訪

米沢に残る慶次の遺品
宮坂考古館の甲冑

 米沢市東1丁目の宮坂考古館は、上杉家から譲り受けた貴重な甲冑を数多く点じしていますが、その中で最も目立つのが前田慶次の甲冑です。正式の名称は紫色威赤塗五枚胴具足(むらさきいろおどしあかぬりごまいどうぐそく)。赤塗りの派手な胴と草刷、兜は笠形、袖は金色の鱗形といった異風で、いかにも慶次好みの甲冑です。また、篭手やはい楯は鉄の鎖繋ぎで、実践にも適した造りになっています。
 慶長5年(1600)の上杉軍と最上軍の戦で、慶次は退却する上杉軍の殿をつとめ、朱塗りの長槍を振りがざして大活躍しました。あるいは、この赤塗りの甲冑を着用していたのかもしれません。また、川西町の菊粋巧芸館にも、慶次の甲冑があります。これも上杉家から譲られたもので、同じ笠形の兜、朱塗りの胴と、宮坂考古館の甲冑とよく似た派手な甲冑です。
図書館所蔵の「前田慶次道中日記」

 市立図書館所蔵の「米沢善本」は、内容の優れた貴重な書籍208部を集めたもので、市の文化財に指定されていますが、その中の1つに「前田慶次道中日記」があります。
 この日記は、慶長6年10月26日、慶次が京都伏見を発ち、翌11月19日に米沢に到着するまでの26日間の道中日記で、慶次自筆本と伝えられています。道中の様子や土地の逸話などとともに、慶次の詠んだ俳句・和歌・漢詩も記され、文学への深い造詣が伺えます。板谷では、「あつさ弓いたや超するかりは哉」と詠んでいます。このほか、慶次が晩年に住んだ堂森地区に、慶次が使用したと伝えられる槍と編笠を所蔵する家もあります。
慶次清水―米沢市万世町堂森
前田慶次ゆかりの清水

 堂森善光寺の西、八幡野球場裏にある慶次清水は、現在は雑木林の中、わずかに水が湧きでている池があるだけですが、江戸初期に「かぶきもの」として知られている前田慶次が庵を結んだところから、慶次清水と呼ばれています。
「かぶきもの」慶次の逸話

 慶次は文学・和歌に優れ、源氏物語などの古典に造詣が深く、連歌も一流の歌人に交わって詠んでいます。また、馬術・武道にも優れ、多くの戦場で大活躍した豪傑です。
 このように文武に優れた慶次ですが、変わったことを行う「かぶきもの」でも有名です。叔父利家をだまし寒中に水風呂に入れ、その間に京に出奔した事、愛馬「松風」を贅沢に飾りつけ京の町並を歩いた事、風呂屋に脇差(実は竹光)を持って湯船に入り、驚いた周りの武士が脇差を持ち湯に入り刀を駄目にしたといった逸話があります。枠に収まりきれない、スケールの大きな人物です。
上杉家を離れず、堂森で悠々自適の生活

 慶次は京で自由に振舞った後、上杉家に仕えました。同じく学問に秀でた直江兼次との親交、その主君景勝の信義を重んじる人柄に魅かれたものと思われます。
 その後上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に削封され、新参家臣の多くが離れる中、慶次は他藩からの誘いを断り、わずかな知行で米沢に留まりました。そして、郊外の堂森に小さな庵を建て「無苦庵(むくあん)」と名付け、悠々自適の生活を送りました。
 堂森での隠居生活も、生来の「かぶく」心は失われず、新築祝に招かれた時、「満つれば欠けることに気付け」と床柱を斧で傷つけ諭した等、多くの逸話を残しています。
 慶長17年(1612年)、堂森で死去。北寺町の一華(現在廃寺となり墓は不明)に葬られたと伝えられ、堂森の善光寺には供養塔が建てられています。
米沢観光大鑑より
堂森善光寺

 山形県貴重文化財の長井時広夫婦座像と、同じく見返り阿弥陀如来とがある。

    * 宝暦13年(1763)4月3日及び明治26年5月23日の再度の火災により正確な記憶がなくなっているが、寺伝によれば、建久3年(1192) 長田将次の妹益王姫の中輿とされている。また、長井時広の創建とも、長井氏三代時秀の創建ともいわれている。益王姫は伊達晴宗女益徳姫ともいう。
    * 善光寺三尊沸は、中尊総丈41.5cm,脇仏31.5cm,地方仏で南北朝から室町頃のもの。
    * 長井時広夫婦座像は一木彫成で彩色がある。時広像は烏帽子姿で、両手定印、夫人像は垂髪でうちかけ姿、右手合掌、左手定印の像である。室町初期の作と推定され、冠服像は地方には珍しい代表作。風俗史的にも好資料。
    * 見返り阿弥陀如来は、桧材の寄木造り漆箔の立像。京都浄土宗永観堂に藤原期の見かえり阿弥陀如来があり、京都の快慶派の仏師によりこれを模したものといわれているが、横向きの仏像は県内はもとより、全国でも珍しい仏像である。高さ53cm、肩張13.5cm、容姿うるわしく、慈悲心を面に表して、斜め下向きで左の救いの手をさしのばした姿は逸品である。
    * 如来堂の現伽藍は、江戸時代8代将軍吉宗のころ、延亭2年(1745)の建造で、寛延3年(1950)に改造が加えられている

所在地:米沢市万世町堂森 Tel : 0238-23-1638
交通:米沢駅下車ばす梓山行き農協前下車徒歩20分。境内に10台程度の駐車可。
前田慶次屋敷跡と慶次清水

    * 前田慶次利貞は、加賀の前田利家の甥である。利家は、慶次を越中阿尾城主にしたが、考えるところあり、京に出奔し、天下の豪傑と交わった。そこで、直江兼続を知り、上杉景勝に仕えることを願い出、家臣とされた。穀蔵院瓢戸斉とか、無苦庵と称した。
    * 文武に通じた豪傑で、奇行も多かった。著書には、「伏見米沢道中記」、「九生記」、「無苦庵領」などがある。
    * 慶長17年(1612)6月4日、多彩な一生を終えたが、その屋敷跡が万世堂森にある。愛用の清水があり、慶次清水と称せられている。
    * 墓は北寺町一華院にあり、遺品の甲冑、手製の面、瓢などが宮坂考古館にある。

所在地:米沢市万世町堂森
交通:善光寺の項に同じ。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:06:20 | 顯示全部樓層
"「出羽の善光寺式三尊像」pp. ?-?
武田好吉 著

ライン
第4章 善光寺三尊像をたづねて
米沢市善光寺の像

 松心山善光寺は米沢の東に位する堂森部落にある。堂森部落は、わかりやすくいえば、福島県から山形県に入る玄関口ともいうべきところで、今度開通した栗子ハイウェーの北側にあたり、かつて上杉の家臣、前田慶次の住んでいた部落である。最近その遺品や資料などからこの人物が大きく取り上げられ「オール読物」に作家尾崎士郎が「前田慶次郎日記」などを掲載してからさかんにマスコミに登場するようになったこの人物の遺跡を、亨和元年(1801)米沢の上杉藩士で文人の国分威胤はその著「米沢里人談」に次の如く記している。

1、慶次清水は堂森山の北にあり。是則前田利太地に住居して常に用いるこの水也。慶長18年6月、利太死す、即ち前田大納言利家の従父昆弟なり。

そうしたこともあってのことであろうか、この善光寺も上杉氏関係のものとみられてきた、即ち上杉氏が転封の際、信州長野の善光寺を移したものと伝えられてきたものであるが、それは誤りである。この地(置賜地方)は上杉氏の領地となる以前は蒲生氏、その以前は伊達氏、さらにその以前は大江氏(長井氏)の領地だったのである。伊達氏は天授6年(1380)宗遠の代、すきに乗じて侵入したものでそれ迄は大江氏(長井氏)の領地だったのである。鎌倉幕府の成立後、わが郷土に大江広元の領地が出来、広元は長男親広に寒河江庄を、次男時広に長井庄(置賜地方)を統治せしめたことは歴史上明らかである。源頼朝が信濃国善光寺を信仰しその再興に尽力していることや、大江氏の信仰が時宗であったことも相まってこの地にも善光寺が建立されたものと考えられるが、それを裏書するものとして、今山形市山寺の立石寺に残る「大般若波羅密多経」奥書をあげることが出来る。即ち同経巻247の奥書に

出羽国長井庄堂森今善光寺常住 本聖仁光常国久慈西群上岩瀬新福寺住僧
著書 金剛仏子宗俊
延文2年酉丁11月17日

同じく巻525の奥書に

羽宗置民群屋代庄河井郷内堂森新善光寺常経也
右筆同群内成島庄古志出郷光明寺住書之

とあり、更に巻265の奥書に「応永4年10月旦那常珍」同じく巻411(軸書)に「軸作者丹治宗光」と記されている。私はこれを「山形県史巻一」でみたのであるが県史の著者も「善光寺現存シテ堂森善光寺ト云う、地方伝エテ上杉家ノ移祀セルモノニ非ナルコト明カナリ(下略)」と記している。しからば何時の頃創建せられたものかということになるが、いづれも善光寺の上に「新」または「今」の字を冠してことを思えば、この経巻の書写され延文2年(1357)を余りさかのぼらない時代、強いて云えば大江氏 (長井氏)の時代になってからの建立とみてよいのではなかろうか。
 ともあれこれは善光寺信仰がわが郷土に弘通した1つの目印ともなってまことに帰郷である。
 さて、この像を拝すると、これはいかにもこの地で造立することを示すかの様に素朴な仏像で中を空洞にすることもこの全軆に銅をみたし更に脇侍2像のごときは台座も共吹である。

金剛阿弥陀如来立像(丸吹)
総高:50.5cm(1尺3寸4分)
像高:37.5cm(1尺2寸4分)
髪際高:35.0cm(1尺1寸6分)

下の台座欠先、右手指先少し欠けている

金剛観音菩薩立像(丸吹)
総高:31.5cm(1尺0寸4分)
像高:24.0cm(7寸9分)
髪際高:21.1cm(7寸0分)
宝冠(7角)に化仏を陽刻、右手を上に重ねている。台座も共吹

金剛勢至菩薩立像(同)
総高:31.5cm(1尺0寸4分)
像高:24.0cm(7寸9分)
髪際高:21.1cm(7寸0分)

 通常、弥陀三尊の立像の阿弥陀如来の印相が上品下生(人さし指に親指、つけた来迎印)であるが、善光寺の場合は、右手施無畏印(まっすぐあげて掌をまともに開く)右手刀剣印(中指と人さし指をそろえて伸ばし薬指と小指に親指を重ねる)であるが、この像はその印相を結んでいる。
 また脇侍の観音、勢至の両菩薩も善光寺式の場合は通常のそれと異り、両手を胸の前で水平に重ねる所請梵篋印をむすんでいるが、この脇侍両像もそれを結んでいる。即ちいうところの善光寺式の仏像であるが、長い歳月の間にはいろいろなことがあったとみえ、中尊の台座失われているのは残念である。
 住職酒井精滋の話によればこの法量は昔から8貫匁(30kg)と伝えられているとのことであるが、誠に重い仏像である。そしてこれまで2度盗難にあい、 2度とも戻ってはいるが、2度目の時は光背と中尊の台座が戻らなかったとのことである。故に中尊の総高はいまは31.5cmであるが、その失われた台座を入れれば本来どの位の高さがあったものであろうか。いま中尊の蓮肉を比較してみると30mm対22mmであるが、脇侍の台座が74mmであるから、その比率でゆくと中尊の台座は102mmとなるから、こうした推定がゆるされれば中尊本来の総高は50.7cm(1尺6寸7分)あった事になる訳である。
 その中尊は本来、仏像、蓮肉、台座と別々に鋳治され、蓮肉に丸い穴をうがち、仏像のそこに突出した2.3cmの柄を挿入したものであった。
 脇侍両菩薩は台座まで共吹にされているが、双方とも左足先をわずかに浮かせている。頬の肉がしまり過ぎてはいるが両腕には鐶釧をも共吹している。
 注尊もとも頬の肉付がなく、長い眼、狭い口などから受ける印象は名にか異国的である。ただし、善光寺如来はその由緒が示すようにもともと異国的風貌をもつものであるから作者もそれをいしきしておったのかどうかは定かではないが、ともかく重いこの三像はともに白毫がなく鋳造技術を見るといかにも地方的であり、前後の型のズレが目立って感じられる。そうした鋳技の稚拙さや造形はやはり地方色とみるべくこの寺の建立の頃の造顕とみるべきではなかろうか。
 またこの寺に山形県指定の有形文化財になっている、俗にみかへりの弥陀という木造阿弥陀如来立像と、大江時広夫婦像というものがあるが、この大江時広像はそうした伝承もなく最近の呼称のようであるが、これは他の例が示すように善光寺の創立者である本田善光および弥生ノ前夫婦肖像というべきではなかろうか。


   1. 「山形県史」巻一、992~999頁、大正9年1月 山形県発行。その中に「大正12年11月17日置賜群長井庄河井郷内堂森、新善光寺住僧本聖仁光、衆僧ヲ傭シ、大般若経ヲ補写セシム其零巻村山郡立石寺現ニ存ス」とあるが、私はこの写経を未だ実現する機会に恵まれないが、明治41年9月16日、山寺の研究家伊沢栄次の著になる「山寺名勝志」に「法華経、1部延文2年、法華経1部公寛1品法親王筆、の次に古写経数百巻」という記事から堂森の写経も恐らくこの中にふくまれているのではないだろうか。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:06:28 | 顯示全部樓層
"氷見市史3 資料編一
古代・中世・近世(一)


「氷見市史3資料編一」

pp.346-347





234末森記(前田氏戦記集)

 去る程に弱を捨て強に付く事のうたてさは、越中阿尾に在城せし菊池伊豆守・子息十六郎評議して、加州・越中の働度々に及びけれども、初は内蔵助多数成るゆゑ押懸けて猛威を振ふやうに候へども、度々に味方利を失ひ候事時の仕合にあらず、小勢を以て多数に勝ち給ふ事は、第一には御運も強く、何時によらず軽々と出馬あり、其身をくるしめ家臣を捨て給はず、頼敷名大将、其上家老の面々に善き兵ども控へたる由なり、殊には日月の草木を照らし給ふ如く、慈悲怠らざる武将なれば、果して冥加可有之、いまだ香ばしげのある内に味方に参り、忠功をつくし候はヾ、などか御感に預らざるべしと計りて、利家卿御内には誰々と申せども、村井又兵衛尉は第一家長と云ひ、武勇智謀も人に勝れ、度々の合戦に猛威をふるひたる人なれば、此人を頼可申と定め、しのび使者を遣はし此由申しけり、則利家卿へ村井ひそかに申上げゝれば、村井御諚最に御座候へども、先彼者を御味方になされ、阿尾の城を請取り、近辺御手に属し候て、菊池忠功を御感有つて其上にて城をも御預け候か、当座の引出物を下され候歟、様子により御計ひ可然候はんやと申しければ、ともかくも能き様に計らひ候へと被仰候処に、村井内の家老を遣はし、能くしめし合はせ加様に仕置たる由、利家卿へ申上げゝれば、同年五月二日に倶利加羅城へ働き給ふと触れさせ、津幡に人数をそろへ、一向倶利加羅をば右に見て、末森と飯山の間より越中阿尾の城へさしむけて、村井又兵衛を先手の大将として、原隠岐守・片山内膳・岡島喜三郎・多野村三郎四郎・前田宗兵衛尉、其外宗徒の人々都合其勢六千余騎にて、阿尾へ懸つかせ、利家卿後詰として馬をよせ給ふ処に、菊池父子唯五十騎計にて出向ひ、御出馬いまだ相延可申と存候処に、存の外軽々と出てさせ給ふ事、殊に悪所と申し御めいよなり、又は御味方可仕と申上ぐるに付て早速御出馬、忝儀可申上様も無御座と申し、則阿尾の城ひらき渡申、我が身は五六町計わきに居住候処に、阿尾の城近辺菊池に随はざる在々所々焼払はせ給ふ処、内蔵助へ守山城主神保方より此由度々注意いたしければ、頓て守山まで成政かけ付き、菊池儀口惜次第哉と、一合戦し勝負を決せんと勇み、少々足軽を被出けれども、阿尾の城へは加州勢入替り、利家卿も後詰に出馬有りければ、叶ひ難く思はれ、成政人数を打入れらなければ、阿尾の城には前田宗兵衛尉・片山内膳・高畠九蔵、鉄炮大将には小塚藤十郎・長田権右衛門、都合其勢千余騎被入置、先人数を打入れ給ひけり。


「氷見市史3資料編一」

pp.347-348





235加越登記(続群書類従 二二下)
 

 同六月廿四日に、森山城主神保安芸守・子息清十郎、五千余の人数を以、氷見口へ相働候処に、青野城主に被入置候前田惣兵衛・片山内膳・高畠九蔵・菊地伊豆守父子、其外二千余騎ニ而罷出、民家焼せ申ましきと仕候処、はやくさり合て戦候得共、森山勢多勢にて候へは、加州勢突崩れ候、加州衆に小塚藤十郎と申足軽大将、高き所へ取上て、こみ返し〈手強く鉄炮うたせ候故、あまり大崩は不仕候、乍去、神保父子大音をあけて下知仕候ハ、誰にても目をかけるな、菊池父子と見は組打に仕候得、日本一の忠功ならむと、一入強く懸り候、殊に神保旗本を以横合に進し故、青野勢弥敗軍の色付候得は、菊池をうたせてハ、武門の恥辱成と下知して、菊池を押隔て、爰を最後と被働候、しかる処に、村井又兵衛利家公の御名代として、城々へ仕置の為に、馬印まてにて上下三百余にて被打廻候か、折節青野へと心さし被参候、此よしを見て、扨々天道の恵みかなと被申、三百の人数を一手にして、馬印をふりて横鑓に突懸候、青野勢悉く色を直し進懸候、兼而村井手並を森山衆存候故、うちての小つちの馬印を見、肝をつふし候由承り候、如斯候故、神保敗軍仕候、中坂と云所まで二里の間追打に五百はかり首を取、あまり長追してハ切所なとにて被返合、引取しほあい大事と、又兵衛下知被仕候故、引取申候、此趣并能首八十三残首ハ注進にて金沢の御城へ為登申処、利家公御機嫌能事不大形、第一村井能時分に参合候事、利家公武運天道の御引合也、如何に参合候共、又兵衛剛強になくんは、いたつら事にて可有に、其身大剛のもの故、青野城の助に成と御感悦被成候、いつれも御褒美被遣中に、又兵衛にハ金子百両、御腰物吉例と被仰、青の御馬まて被下候、




「氷見市史3資料編一」pp.348-349





237村井家伝(前田氏戦記集)

一、 同年六月廿六日、越中勢神保安芸守・同清十郎数千之人数にて青之城江被入置候前田宗兵衛・片山内膳・高畠九蔵・菊地父子と戦、又兵衛越中取手要害番勢之為仕置被出候、其折節行合、横鑓に突懸り、又兵衛江能首八十三討手取、其外追討に仕数多討捕申候、為御褒美青黒之鞍置馬被下候、"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:06:36 | 顯示全部樓層
"「氷見の山城」

pp.40&43





末森記

 同六月廿四日に、守山に有之神保安芸守・子息清十郎五千騎を引ぐし、氷見口へ相働候処に、阿尾の城に加州より被入置し前田宗兵衛・片山内膳・高畠九蔵・菊地父子、其外宗徒の兵二千余騎、民屋を焼せじと帰けるに早取付、切合突合おめき叫んで敵味方入乱れ戦し処に、守山勢多勢なれば阿尾の勢つき立られ引色になる処に、鉄炮大将小塚藤十郎などおめき叫んで鉄炮を高き所へ引上せ、込返し〈打せければ、守山勢鉄炮に当り少々ひかへたる其間に、片山、菊池父子など下知して押返し、守山勢を突立打立、互に首を取もあり被取もあり、両方六七十騎うたれにけり。神保旗本千騎鑓を入来て、誰にも目かくるな、謀反人菊池父子討取候はヾ不残忠功と、声々に呼はりけり。阿尾の勢ども之を聞、菊池討せては面々の恥辱なりと、かけ廻て下知して、足懸り能き所へ菊池父子差上せ、おめきさけんで戦ふ処へ、又阿尾の勢突立られて、善き兵共四五十騎討れにけり。守山勢は弥気を得て揉にもうで戦ふ。阿尾の勢危くみゆる処に、村井又兵衛尉利家卿の名代に、取手共の城々、爰かしこ堅固に守候へと、仕置のために馬印までにて上下三百余騎にて参りしが、折節阿尾へと急ぎ来り候処に、此由をみて、扨も天のあたへかと云もあへず、三百余騎をまん丸に備、馬印をふり立、横鑓に懸れかゝれと下知して、我身は真先に馬上に鑓を持て懸りける。又兵衛大剛のものなれば、阿尾勢も是に力を得て取て返す。守山勢、度々手柄を尽したる打出の小槌の馬印を見て、すはや村井かと思ふにより、さしもにきほひたる勢なれども、村井に突立られて、一さゝへもさゝへず崩れしを、長坂と云処まで二里の間追討に討つ程に、五百余騎討取、勝時を作り、懸れや々々余り長追して節所に行懸り引しほ大事と、又兵衛前後を廻り下知して引取けるい、村井弥威いやましに成、肩をならぶるものなかりける。彼首共の内名ある者共八十三騎、残首共は注文迄利家卿へさゝげ物に仕たりければ、村井加様の働今にはじめず候といへども、殊更よき時分阿尾へ行合、城に置く者討せず候事大慶不過之候。以来は構へて守山勢出たりとも、此方へ注意なく阿尾城を出づべからずと、阿尾の兵共へ被仰遣。則村井又兵衛尉には黄金百両・刀則吉、吉例とて青の御馬を給はりけり。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:06:41 | 顯示全部樓層
"「加賀俳諧史」 pp. 1-2
大河良一 著
清文堂書店 出版

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寛永十五年戊寅(一六三八)

 鷹筑波、毛吹草に大橋可理がそれぞれ二句採録された。同一句である。鷹筑波は寛永十五年五月廿五日長頭丸奥書 寛永十九初秋二条寺町野田矢兵衛開板で貞門の最も古い撰集である。毛吹草は松江重頼撰、序文は寛永十五年一月二十五日になり正保二年二月に至って上梓された。三条寺町本能寺前助左衛門開板作者二百六十人のうち加賀之住可理二

 二千里のほか井に入る望月夜
 雪の中のはせをてはなし初時雨

 鷹筑波には玄旨法印の記事に付随して前田慶次の逸事が見える。これはおそらく加賀関係の人の俳書に見える最初のものであろう。「玄旨法印の妙成玄旨法印の妙成御句共は犬うつわらんべ迄知たることなれば中々爰にしるさすこれら皆前句を云はてぬにはや付給ひたる句也丸なとがやうに久案給し事一度も無之中にも諸人おとろくはかり早あそはされしは伏見にて前田慶次良似生と云人再々篇の比まてしをくれ給て仰是は何と云へきと前句にとりあはす申されけれは玄旨法印 能のわき名のるよりはや打忘れ とあそはし侍るかやうの事千たひ百度とかきらすありし事なれは独存出して泣はかりにて侍云々」加賀藩祖前田利家の長兄利久は利家に長すること五才永禄三年七月十三日父利春(道機庵休岳居士)の死後をついだが同十三年織田信長の命に従うて弟利家に家督をゆずり、のち利家が加賀一円を領有するに及んで来仕し七千石を与えられ、内室が滝川益氏の妹であったのでその一族の利太を養うて嗣とし、天正十五年八月十四日に死去した。利太の通称は宗兵衛、慶次郎又は慶次、諱は利太の他、利卓、利益、また利治ともいうた。父とともに利家に仕えて越中阿尾を預けられたともいい、また松尾村に住んだともいう。〔燕台風雅には能登松応村としるし能登志徴の津田鳳卿賀能登淡斎橋本叟 六 ―― 帖敍に応永以遠畠山満則為 守護子孫相継八世拠松尾(〇)、また同書にひく能登誌に松尾(〇)山神宮寺と見える〕しかし天正十八年には京に去り穀蔵院ひょっと斉と名をかえ会津の上杉家に仕えて五千石を与えられた(能登志徴)。関原役には直江兼続に属したが戦後景勝が米沢に移されるとに処士となり大和刈布に蟄居した。燕台風雅に小梁川東上村に居宅の跡があり世人山鶯館跡といい堂森善光寺に石碑があるとしるし、一本前田系譜に会津郷川畑村に終るとするのは、ともに上杉家に禄仕した関係によるものであろうが、その死去の地については「卒其土」とするのとともに誤であろう。慶次に随身した旧臣野崎八左衛門知通七十七才の述書前田慶次伝(写一冊承応元年正月奥書)によれば晩年病んで自ら竜砕軒不便斉とよんでいたが、慶長十年十一月九日巳の半刻七十三才をもって大和国刈布村に死去し同地の安楽寺に葬られ、竜砕軒不便斉一夢庵主と刻んだ方四尺余高さ五尺の石碑がたてられたという。燕台風雅よれば利太は兼続と共に学僧南和に学び詩文の才があって紹巴らと唱和したのみならす「有遺集又所手輯有韻礎」と記すが遺集並に韻礎については詳らかでない。三州遺事は無苦庵と号し無苦庵記があるといい能登志徴には学問歌道乱舞源氏物語の講釈に長し伊勢物語の伝授をうけたともしるしている。遺子安太夫正虎は一時加賀藩に仕えて二千石給せられたがにち処士をもって七尾に終った。光悦流の書をよくし藩の故事を伝えた前田家之記をのこしている。正虎には三人の姉妹があった。一人は利長の妾のお花の方となりのち有賀左京に嫁し更に大聖寺藩士山本弥右衛門に再嫁した。他の二人はそれぞれ北条主殿と富山藩士戸田弥右衛門方経とに嫁した。"
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