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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:06:47 | 顯示全部樓層
"「上杉史料集(下)」 pp. 288-290
井上鋭夫 校注
人物往来社 出版

ライン
上杉将士書上

(pp. 288-290)

一、慶長三年、会津五十万石へ、景勝所替に付、所々手置き候節、謙信此方、武功の家臣等も病死に付、手薄に有之候間、蒲生家の牢人召出し候。
一、栗生美濃守 外野池甚五左衛門 岡野左内 布施次郎右衛門 北川図書
  高木丹下 青木新兵衛 高木図書 安田勘助 小田切新左衛門 横田大学
  正木大膳 武蔵隼人 長井膳左衛星門 深尾市左衛門 堀源助
一、関東牢人         山上道及        首供養度
度仕候由         上泉主水        武州深谷城主上杉左
兵衛尉憲盛の老臣         車丹波守        火車の
指物
一、上方牢人 水野籐兵衛 宇佐美弥五右衛門 前田慶次郎
右の外数十人抱へ候へども、竝々の者に付、除き申候。
右の内、此慶次郎、加賀利家の従弟に候。景勝へ始めて礼の節、穀蔵院ひつと(ひょっと)斎と名乗る。其の時夏なりしが、高宮の二福袖の帷子に、褊?(ヘンタツ)を着し、異形なる体なり。詩歌の達者なり。直江山城守兼続も学者故、仲好し。山城守宅にて、最上へ出陣の節、慶次郎は黒具足に猩々緋の陣羽織、金のひら高数珠を首に懸けて、数珠の房、金の瓢箪、背へ下るやうに懸けて、河原毛の野髪大したの馬、金の兜巾を冠らせて打乗り、三寸計りの黒馬に、緞子の□□(二字欠)にて、味噌、乾糒を入れ、鞍坪に置き、種子島二挺付けて、乗替に付けさする。最上陣の退口に鎗を合せ、高名誠に目を驚かす。異形の風情なるも、□て敵味方感じけり。此時の姓名は一番ひつと斎・水野籐兵衛・藤田森右衛門・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門、以下五人、一所に合する。此時に、最上義光、伊達政宗を一手に合せ、上杉勢の退を附慕ふに付、中々大事の退口にて、杉原常陸・溝口左馬助、種子島八百挺にて、防ぐ戦うと雖も、最上勢、強く突立つる故、直江怒りて、味方押立てられ、足を乱し、追討に逢はん事、唯今のことなり。扨も口惜し。腹を切らんといひけるを、慶次郎押留め、言語道断、左程の心弱くて、大将のなす事にてなし。心せはしき人かな。少し待□□(二字欠)我等に御任せ候へとて、返し合わせて、右の通り五人にて鎗を合せ、最上勢を突返し、能く引払ひ申候。後関ヶ原一戦、景勝、米沢へ移り候節、諸家にて招き候へども、望なしと申して、妻子も持たず、寺住持の如く、在郷へ引込み、弾正太弼正勝の代に病死仕候。連歌を嗜み、紹巴の褒美の句、数多く有之候。此一句も、褒美の句に候。

賤が植うる田歌の声も都かな     ひつと斎"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:06:52 | 顯示全部樓層
"「直江山城守」 pp. 152-162
福本日南 著
歴史図書 出版

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前田利大の豪放

 前田慶次郎利大(まえだけいじろうとします)は加賀大納言利家の兄利久の子なり。人となり豪放不羈(ごうはうふき)にして、小節に拘はらず。武技に練達し、兼ねて文学に通じ、国風、謡曲、舞踏、囲碁、挿花、點茶(てんちや)善くせざる所なし。性諧謔(かいぎやく)を好みて、言行常に人の意表に出でたり。少より利家に従ひて、夙(つと)に戦功を建て、名諸侯に聞こゆ。平素一駿馬を蓄へ、名けて松風といふ。嘗て京都に在るや、日に僕をして之を牽きて鴨河に飲(みづか)はしむ。且つ其僕に著けしむるに、烏帽、赤衣、赤袴を以てし、又授くるに一曲の謡(うたひ)を以てせり。時に戦国の世、侯伯士太夫(こうはくしたいふ)皆良馬を思はざる無し。是を以て路に利大の馬を見る者、足を停めて其主を問はざる無し。問はるれば、僕莞々として扇を開き、
  赤いちょっかい革袴。鳥のとさかに立烏帽子。前田慶次が馬にて候ふ。

と且つ謡ひ且つ舞ふ。是れより利大の名京洛に騒げり。

 前田利家は謹厚の人なり。しばしば利大の放縦を戒めて巳(や)まず。利大懌(よろこ)ばず。独り自ら嘆じて曰く、人の萬戸侯(ばんここう)たむも亦布衣に異ならず。自今吾、我が言はんと欲する所を言ひ、為すさんと欲する所を為し、心志の快適を以て、萬戸侯に易へんのみ。阿叔(あしよく)は老實、是れ我主に非ずと。乃(すなは)ち国を大去せんと欲し、一日利家に謂いて曰く、冬日くくたり。點茶に宜し。請ふ之を家に於てたてまつらん。利家悦びて行く。利大予め冷水を浴槽に盛り、點茶既に了(おわ)るや又謂いて曰く、天寒殊に甚し。請ふ浴して温を取りたまへと。自ら導きて浴室に至り、手に槽中を探り試みて曰く、熱ならず、寒ならず、季春の暖なり。利家其故意たるを思はず。衣を解きて入れば即ち冷水なり。且つ驚き、且つ怒り、大呼して曰く、慶次悪戯して復た吾を弄するかと。時に利大、松風を装ひて、後門に牽かしむ。利家の驚き怒るを聴き、掌を抵(う)ちて一笑し、身を起して後門に至り、松風に騎して而うして去れり。

 直江山城守兼続の将に兵を挙げんと企つるや、利大を景勝に薦め、五千石を食せしむ。利大、利家を憚(はばか)りて髪を削り、穀蔵院ヒョット斎と号し、また無苦庵と号す。曰く、如今吾芸蒭となる。法衣を着けて景勝に見えんのみと。既に至り一日景勝の士志賀輿惣右衛門・栗生美濃等と相合し、酒を置きて暢談(ちやうだん)し、偶人物の評ひつに入る。一人曰く、林泉寺の和尚は主家の帰依する所なるも、倨傲自尊、面貌悪む可きなり。一拳を加へなば則ち快ならん。利大曰く、是れ易々のみ。衆曰く、故なくして人を打つは、不法なり。吾曹(ごさう)皆名誉の士なり。誰か之を敢えてするを得んや。利大笑ひて曰く、吾に術あり。請ふ暫く之を待てと。直ちに雲水の行者をまねて、林泉寺に抵(いた)る。利大未だ和尚を知らず。而も其の酷(はなは)だ碁を嗜む稔聞せり。乃(すなは)ち請ひて庭園を観 盛に泉石(せんこく)の美を賞す。和尚先づ特色あり。室に延(ひ)きて茶を饗(きやう)するに及び、利大席上に碁局があるのを視て、又た対局の趣味を言ふ和尚に一局を請ふ。利大曰く、凡(およ)そ諭えいを競ふ者は、賭するに非れば興高らかず。但だ物を賭するは則ち卑なり。乞ふ互いに一拳を賭せん。和尚曰く、桑門にして人を打つ、恐らくば教旨に背かん。利大曰く、碁してまくる者は、畢竟大悟(ひつきやうだいご)徹底せざるに由るのみ。喝棒一加、亦妙ならずや。和尚乃(すなは)ち諾せり。初めは局に対して、利大佯(いつわ)りてまけ、拳を受けんと請う。和尚曰く、用ゆる無きなり。しひて請うに及び、僅かに一弾指を加ふ。利大曰く、可なり。更に復た局に対し、利大大いにかてり。和尚首を延べて約に遵はんことを請ふ。利大亦之を辞す。請うこと再三に至り、大喝一声、鉄拳を奮ひて之を打つ。和尚眩倒し、鼻衂(びじく)迸り出づ。利大走り出で、帰りにて之を報ず。衆腹を抱いて絶倒せざる無し。

 既にして徳川家康大軍を発して東下すとの報あり。兼続大いに戦備を修む。利大乃ち手に朱柄の槍を把り、背に匹練(ひつれん)の旗を負ひ、旗上に「大ふへん者」の五文字を題し、以て兼続の麾下に属し、部隊を指揮す。同列平井出雲・金子次郎右衛門等背旗の題字を視て、憤りて曰く、我上杉氏は奕世(えきせい)の勇武、天下の共に推す所なり。かれかつときて来たり仕へ、未だ幾ばくならざるに、自ら榜(ほう)して「大武辺者」といふ。あに上杉氏の将士に人なしと謂ふか。其旗を折りて蹈籍(たうせき)せんのみと。乃(すなは)ち就きて之を詰(なじ)る。利大笑ひて曰く、諸君粗笨(そほん)にして、文義を知らず。其の清む可(べ)きを濁り、濁る可きを清み、読みて大武辺者と為す。何ぞ不通の甚だしきや。吾遠く郷国を離れて来た客たり。居るに妻妾なく、出づるにどう僕なし。故に自ら「大不便者」たるを表し、諸君の同情を需(もと)むるのみと。衆皆惘然たり。

 上杉氏の家法、武勲絶倫の士に非ざれば、朱柄の槍を把ることを許さず。利大の之を手にするを視るに及び、同列韮塚理右衛門・水野籐兵衛・藤田森右衛門・宇佐美五左衛門の四人交互兼続に愬(うつた)へて曰く、臣等之を請うこと多年にして得ず。而るに慶次独り之を専らにす。願わくば皆用ゐることを得ん。若し命を得ずば、先ずかれより禁ぜよと。兼続開諭(かいゆ)すれども服せず。遂に命じて之を用ゐしむ。家康への旗を小山より回(かへ)すや、利大、杉原常陸介親憲と兼続の最上攻撃の策を賛し、畑谷より長谷堂に進む。既にして関が原の敗報達し、兼続軍を收(おさ)む。最上義光父子・伊達政景等と兵を合し、追撃甚だ急にして、全軍の退却に難(なや)む。兼続怒り、麾下の三百を以て返戦す。利大先きの韮崎・水野・藤田・宇佐美と五人、皆朱柄の槍を揮ひ、各々自ら姓名を呼ばばりて、奮闘突戦し、遂に敵を撃退せり。

 伊達政宗の来りて福島を襲ふや、利大亦(また)防戦殊功あり。此(この)間の事か。一日利大身を戦陣に挺し、所謂一番槍を試む。敵中よりも亦一人の槍を堤(ひつさ)げて来たりて進むあり。凡(およ)そ一番槍は戦士の至難とする所、之を試むること数回なる者に非ざれば、眼明かに気平かなる能はず。利大且つ進み、且つ望めば、敵の近づく者首を俯(ふ)し、地を看て、人を看ず。利大乃(すなは)ち後ろより叩きて其槍を落とし、直ちに打ちて敵を地に伏せり。両軍其の首級を挙げて起つ可きを思へり。而うして利大伏したる敵に溺(ゆはり)し、槍を奪ひて之を取り、己が槍とを合せ、両悍を擔(かつ)ぎてかん走して帰れり。笑声為に遠近に震へり。

 景勝の会津百二十萬石を失ひて、米沢三十萬石に移封せらるるや、濟々(せいせい)たる多士、以て養ふ可き無し。人々をして其去就を択ばしむ。時に利大の驍名益々高く、諸侯重禄を以て之を招く者尠(すくな)からず。利大曰く、関が原の敗後、西軍の諸将争ひて質を送り、降を請ひ、鼠伏足恭(そふくそくきやう)、天下の侯伯、徳川氏の下風に立たざる者あらず。是時に当た當(あた)りて、敗を聞きて屈せず、抗戦尚(な)ほ一歳に及び、和を待ちて而る後ち兵を収めたる者は、独り我中納言あるのみ。我主と為す可き者、此人を措きて他に在ること無し。如今(じょこん)吾亦(また)世に望む所なし。優悠(ゆうゆう)生を畢(おは)らんのみと。五百石を受けて、上杉氏に留まれり。

 一歳景勝に従ひて江戸に在り。一日市中の混湯に赴き、短刀を手にして而うして浴す。士人の浴する者変あるを疑ひ、皆之に倣ひたり。既にして利大其刀を抜きて、脚腕を摩す。之を熟視すれば竹箆刀(たけべら)なり。衆其の為に誑(たはか)られたるを悔恨せざる無し。景勝の子定勝の時尚(な)ほ存す。後米沢に歿(ぼつ)したり。其の人嘗て己が像に賛して曰く。
抑々(そもそも)此の無苦庵は考を勤むべき親もなければ、憐れむ子もなし。心は墨に染まねども、髪結ぶがむつかしさに頭を剃り、手の使不奉公もせず。足の駕籠舁小揚(かごかきこあげ)を雇はず。七年の病なければ、三年の艾も用ひず。雲無心にして岫(ちう)を出づるも亦おかし。詩歌に心かけねば、月花も苦にならず。寝たければ昼も寝(い)ね、起たければ夜も起る。九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八萬地獄に落る罪もなし。生る迄生たら、死ぬるで有うと思ふ。

 胸に光風霽月(くわうふうせいげつ)を懸け、心に死生窮達(きゅうたつ)を外にする者に非(あら)ざれば、之を言ふ能(あた)はず。且つ其人の学植、文才も、亦(また)由りて想見す可(べ)し。予(われ)是(ここ)に於て乎彼が兼続と倶(とも)に宋板史記に評語を加ふるの空談ならざる可きを信ず。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:06:58 | 顯示全部樓層
"「常山紀談」中巻 pp. 132-134
湯浅常山 著
森銑三 校訂

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前田慶次が事
前田慶次郎利大忽々斎(こつこつさい)と号す。加賀利長と従弟なり。

 一説に、利大(としおき)は滝川儀太夫が妻に懐胎にて離別し、利家の兄蔵人に嫁して、前田家に生まるといへり。
前田の家を立去て、

 利大は文学を嗜みさまざまな芸にも達せり。滑稽にして世を玩び、人を軽んじける故、利家教訓せらるる事度々に及べり。利大大息ついて、たとえ萬戸侯(ばんここう)たりとも、こころにまかせぬ事あれば匹夫に同じ。出奔せん、と独言せしが、ある時利家に茶奉るべきよしいひしかば、悦びて慶次が許に来られしに、慶次水風呂に水を十分にたたへてかくし置き、湯風呂の候。入り給はんや、と横山山城守長知をもていへば、利家、よかりなん、とて浴所に至る。慶次自ら湯を試みて、よく候、と言へば利家何の心もなくふろにゆかれしに寒水をたたへたり。利家、馬鹿者に欺かれしよ。引き来れ、といはれしに、慶次、松風という逸物の馬を裏門に引き立てさせて置きたりしに打乗、出奔しけるとぞ。又京にて夏の比馬を川入にやりけり。馬取の腰に烏帽子をつけさせたり。道にて往来の人立ちとまり、ふとくたくましき馬なれば、誰の馬にて候、と問ふ。則(すなはち)烏帽子を著(き)足拍子をふみて、此(この)鹿毛(かげ)と申すはあかいちよつかい皮ばかま、茨がくれ鉄甲(てつよろひ)鳥のとつつさか立ゑぼし、前田慶次が馬にて候、と幸若の舞を謡ひて引き通る。見る人の問ひし度ごとにかくしけるとなり。
上杉景勝に仕へけり。

 初めて目見えする時、土大根三本台に居て出しけり。

朱柄の槍を持たせしかば、何ゆゑぞ、と咎むるに父祖より持せ来りし、といふ。水野東兵衛、韮塚理右衛門、宇佐美彌五右衛門、藤田森右衛門、年久しく朱柄の槍持たせん事を望み申せど許されず。然るに慶次を制禁なくば、四人ともに許さ候へ、と訟へて許されけり。直江山形に攻入引返す時、最上義光大軍にて追かけ、州川にて軍有りしに、義光旗本をひいて切ってかかり、合戦数刻に及びけるに、上杉勢引き取り兼しかば直江怒って、われ大将として此の口に向ひ、おくれをとる事口惜きよ、といひすてて、敵味方にらみ合ひたる度に馬を乗かけたり。杉原常陸は戦陣に有りて種ヶ嶋の鉄砲を下知しけるが、慶次におり立ちてかかられよ、といへば、馬より飛下りたり。慶次其の日の出たちは、黒き物具に猩々皮(しょうじょうひ)の羽折を着、金のいら高の数珠のふさに金の瓢箪付けたるを襟にかけ、山伏頭巾にて十文字の槍を持ち、黒の馬み金の山伏頭巾をかぶらせ唐鍬(たうしりがひ)かけたり。前田慶次、と名乗てかかりける度に、水野、韮塚、宇佐美、藤田四人も同じく槍を引堤げ、をめきさけんで念なく敵を突退けたるに、杉原種ヶ嶋鉄砲二百挺、小高き所へおしあげうたせし故物わかれせしかば、慶次下知して引き取りけり。

 慶次指物ねりに大ふへん者と書きたりしに、人々、あまりの事よ、といへば、慶次、汝たちは武辺とよみたるや。われ落ぶれて貧しければ、大不辮(ふべん)者という事なり、と戯れしとかや。上杉家禄知削られし後、士多く暇を取て立去けるに、慶次を七八千石、一萬石を以て招く大名あり。慶次、われ此の度の乱に諸大名の表裡(ひょうり)の心見限たり。景勝ならでわが主君とすべき人なし、扶持し置きてたまはれ、とて五百石の禄にて民間に引込、風月を楽しみ歌学に心を寄せ、源氏物語を講じて世を終れり。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:07:04 | 顯示全部樓層
"あいつは豪気なかぶき者, p. 162
浜垣容二 著
新人物往来社 出版

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前田慶次
気骨あふれる異装の武将

 「加賀藩史料」慶長十年十一月九日の条によると、前田利太(初め利益、通称慶次)は、織田信長の武将、滝川一益の子で、母が後に前田利家の兄、利久(長兄)に嫁し、利久に子がなかったのでその養子となって前田姓を冒したとある。

 また利久の妻は、一益の弟・益氏の妻であったとの説があり、益氏が戦死したあと、利久と再婚したときにすでに益氏の胤を宿していたという。それが慶次で、養子縁組をしたというわけだ(他に種々説があるが割愛)。永禄十二年(一五六九)十月、前田家の四番目の子であった利家が、主君信長の厳命で家督を継いだ。理由を思うに、父前田利昌の死後、治の人利久が荒子城を継ぐと、武のため、永禄三年(一五六0)那古屋城の林佐渡守秀貞とよしみを通じた。秀貞は信長の腹心である。その弟通勝が、末森城にいた信長の弟信行と手を結び、叛乱を起こした。通勝は信長に突き殺され、のちに信行も実の兄信長に殺されしまった。

 当然利久は、林秀貞ともども信長に警戒され、利久と慶次の家督長子縁結を許されず、荒子城は利家に配された。ここに慶次の流浪が始まることになる。

 戦いに臨む慶次のいでたちは、黒皮胴の具足をつけ、猩々緋の陣羽織、金泥の数珠の総に金瓢箪をつけたものを襟に掛け、十二のひだがついた山伏頭巾を被り、唐鞍を置いた「松風(愛馬)」にも山伏頭巾を被らせ、金唐草の面々で覆っている・・・(「常山紀談」)まさに気骨あふれるかぶき(傾奇)者である。茶華に秀で詩歌に長じ、兵法も一流、酒は斗酒も辞せずと各書にある。

 故隆慶一郎氏は、「旅日記」(慶次著)の中の彼を「学識溢れる風流人で、剛毅ないくさ人」と見、したたかで優しく、「生きるに値する人間であるためには何が必要かをよく承知している自由なさすらい人」と判じている。

 前田家の宿敵、上杉景勝に味方した慶次は関ヶ原の合戦後、まもなく上杉を離れ、十二年も生き延びて七十三歳で没したという。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:07:09 | 顯示全部樓層
"「奮闘 前田利家」 pp. 120-121
学習研究社 発行

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前田慶次郎
天性徒(いたずら)ものにて、心叶わぬ”傾奇者”なり

 この漢―慶次郎利益(とします)とも慶次利大(としおき)とも称した。出自・生年ともに判然としない。定説では、織田信長の宿将滝川一益の甥・儀太夫氏益の子で、前田利家の長兄利久の養子となった者とされる。
 また一説には利久が後妻に迎えたのが儀太夫の妻だった女であり、利久に再嫁した際、すでに儀太夫の子をはらんでいたが、それを承知の上で妻にしたという。よほどの美貌か魅力的な女であったに違いない。利久は尾張荒子二〇〇〇貫の城主だ。順調にいけば、生まれ出た慶次郎は、前田家を相続し、小ながら荒子城主となる筈であった。
 ところが、思わぬ支障が生じた。永禄十二年(一五六九)主君信長から、血の繋がらぬ慶次郎よりは、実弟利家に家督を継がしめよとの厳命があり、利久や慶次郎ら一家は荒子城をおわれるという思いもよらぬ悲運に見舞われた。この事件が、多感な少年慶次郎に、どれほどの挫折感を刻んだかは分からない。
傾奇ごころを発揮

 とにかく利久一家は、以来、一四年の歳月を流浪の中に送った。天正十一年(一五八三)ようやく金沢に安住の地を得た。前年、信長は本能寺の変で横死し、この年の賤ヶ岳の合戦で、はじめて柴田勝家に与力した利家だが、羽柴秀吉の説得に応じて、加賀討伐の先陣をつとめたのが幸運を呼んだ。能登国および加賀半国を領する身となり、利久一家は金沢城に拠った利家に仕官したのだ。
 信長の厳命ゆえとはいいながら、荒子城から兄一家を放逐し、不運の境涯におとしたという罪悪感のある利家は、兄一家を温かく迎え入れ、慶次郎をも一門衆として扱い、五〇〇〇石をもって越中阿尾城を預けている。この頃は慶次郎も神妙だったが、やがて養父利久が病没すると、にわかに目覚めたように傾奇ごころを発揮した。
 もともと慶次郎は、
「天性徒ものにて一代の咄色々あり」(『可観小説』)
 と評された漢である。いつまでも一ヶ所に安住し、神妙に仕えていられる筈がない。すなわち、「心叶わずば浪人に同じ、所詮立ち退くべし」と、窮屈に感じた利家との決別を決意した。慶次郎が寒日に利家を茶の湯に招待し、欺いて水風呂に入れ、利家が悲鳴をあげている間に、利家自慢の名馬「谷風」に打ち乗って金沢を出奔しらというのは、このときのことである。
主君は景勝公のみ

 京に上った慶次郎はたちまち洛中の有名人となった。鴨川で下郎の洗う馬の見事さに、人が「誰の馬か」と訊くと、小者は腰に下げた烏帽子をかぶり、足拍子をとって、
  この鹿毛と申すは
  赤いちょっかい革袴
  茨がくれの鉄冑
  前田慶次郎の馬にて候
 と幸若舞を舞うのだ。
 また市中の銭湯に、下帯に脇差を差して入ったので、居合わせた無刀の者たちも、慌てて自分の脇差を取り戻り、頭に載せて湯船に入った。ところが湯船から出た慶次郎が抜き放ったのは竹光の垢落しだったのだ。
 もっとも、慶次郎は単なる傾奇者ではない。関白一条兼冬、右大臣西園寺公朝の屋敷に出入りし、大納言三条公光からは『源氏物語』や『伊勢物語』の伝授を受けたといわれ、
「武辺度々に及び、学問、歌道、乱舞に長じ、源氏物語の講釈、伊勢物語の秘伝つたへて文武の兵也」
 とは、『武辺咄聞書』の記すところである。
 その慶次郎が、関ヶ原合戦には奥州会津若松一二〇万石の上杉景勝に仕えていた。彼が景勝に目見えした時、剃髪し黒染めの法衣姿で、名も穀蔵院惣之斎(こくぞういんひょっとさい)と名乗ったのは、前田利家を憚ってのことであった。
 関ヶ原から遠く離れた奥州の地にも石田三成の挙兵に呼応した合戦があり、慶次郎もこれに朱塗りの槍を抱え、「大ふへん者」の旗指物を背にして出陣した、上杉家古参の猛者たちが、これにクレームをつけた。朱槍は城主に許された勇士のみ用いる物であり、新参の身で大武辺者とはおこがましいと。
 すると慶次郎は朱槍は前田家伝来のもので、「大ふへん者」は大武辺者の意にあらず、新参者ゆえ、なにかと「不便者」と記したといって煙に巻いた。生真面目な上杉家の武辺者のいい勝てる相手ではないのである。
 関ヶ原合戦の一方の雄、石田三成と気脈を通じたといわれる上杉家の家老直江山城守兼続ほどの者が、最上義光勢と戦った長谷堂合戦で、追いつめられて自決をはかった際、
「言語道断。左程の心弱くて、大将のなす事とてなし、心せはしき人かな。少し待ち、我手に御任せ候へ」
 といい放った慶次郎は、例の朱槍を振るって敵陣に突入した。それを見た例の朱槍にクレームをつけた四人の朱槍組も、負けじとばかりに慶次郎につづいて奮戦しだしたため、退却は無事に成功した。殿軍をつとめた直江兼続の撤退は、敵味方よもよほど困難と見定められたらしく、最上方でも、
「ここかしこの難所へ追い詰め追い詰め討ち捕りければ、一人も助かるべしとは見えざりけり」
 と書き、つづけて、
「然れども直江は近習三百騎ばかりにてすこしも崩れず、向の岸まで足早に引きりけるが、取って返し、追ひ乱れる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い捨て引き返しければ、直江も虎口を逃れ、敗軍を集めて、心静かに帰陣しけり」
 と驚嘆の思いを書き留めているのである。
 その奇跡的な撤退を可能ならしめる原動力をなしたのが、傾奇者にして学識深き武辺者・前田慶次郎利大なのであった。
 大戦後、上杉景勝は、会津一二〇万石から出羽三〇万石に移され、同時に多くの将が去った。四分の一に減封とあっては、到底多数の家臣を抱えきれないのは自明の理である。が、慶次郎は、高禄で召抱えようという諸大名の誘いを拒絶し、
「わが主君と思えるのは、大剛の景勝公のみである」 といい、禄わずか五〇〇石で上杉家に残留した。その終りは、米沢城下、あるいは大和国で余生を静かに送ったともあり、一定しない。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:07:15 | 顯示全部樓層
"「歴史と旅」2000年3月号, pp. 80-87
戸部新十郎 著
秋田書店 出版

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さすらい慶次郎ものがたり
ばさらの時代

 男の世界は男を立てることからはじまる。立てるとは行為や現象の度合いを際立たせ、目立たせる意味である。
 他でもなく
<男伊達>
をさす。精神的に意気を競い、派手に振舞うことである。
 時代によって呼称も内容も異なるものの、その本質は変わらない。”ばさら”は南北朝から室町時代にかけての言葉で、普通”婆娑羅”と書く。伊達な風態に贅をつくす洒落者、あるいは派手で無法で、ふざけた振る舞いを好む者たちであり、その代表に佐々木道誉がいる。
 安土桃山時代には
<かぶき者>
 といった。異様、異端な身なり、奔放な行動、ふざけ、たわむれなどの意を含むが、元来は”傾(かぶ)く”こと、つまり傾いているわけで、ひと口に曲がっていると理解していい。

 織田信長の異装は有名で、
「髪はちゃせんに巻立て、ゆかたびらの袖をはずし、のし付きの太刀、わきざし、ふたつながら長柄に、みごなわにて巻かせ、御腰のまわりには猿つかいのように、火燧袋、ひょうたん七つ八つ、つけさせられ、虎、豹皮の半袴を召す」(『信長公記』)
というふうである。これは舅斎藤道三と会見する直前の服装だが、会見時にはちゃんと容儀を正している。この容儀を一変して改めるということも”かぶき”の表現であり、いわば衝撃性、演劇性ということができる。加賀百万石の祖となる前田利家は晩年の温厚篤実さばかりが知られているが、信長門下の優等生だけあって、若いころはなかなかに”かぶいた”人だった。喧嘩好きのうえ格別に華美をほどこした。”又左衛門(利家)槍”を持ち、大道を闊歩したそうだ。自身、
「わかき者共、少しかぶいたる程の気立ての者を御意に入り申し候」(『亜相公夜話』)
といっている。

 さて、この時期”かぶき者”を代表するのは、利家の甥の前田慶次郎利太(利貞)である。その素性についてはいろいろと説があるが、『本藩歴譜』によると「滝川左近将監一益の甥、儀太夫益氏の子」ということになっている。なぜ滝川姓の者が前田姓を名乗ることになったかといえば、儀太夫の妻であった女が懐妊したまま、利家の長兄で尾張国荒子二千貫の前田家の当主利久のもとへ嫁いで、生まれた男児慶次郎が利久の嗣子になったからである。
 永禄十二年(1569)の十月、前田家に変化が起こった。信長が利久に「家を利家に譲るべし」と命じたのである。利久が凡庸な人物であったのに反し、弟利家は武勇抜群で、大いに信長の気に入られていた。当時の評価はなにより武功にある。当主交替もやむを得ないが、信長の口実は「歴とした弟がいるのに血の続かぬ他人の子を後嗣にすることはない」ということであった。温和な利久は黙って承諾したが、妻は「この城に住むものに禍あれ。この衝立を用いるものは足萎えよ」など様々に呪ったという。そしてその退散一家の中に前田家の推定相続人である慶次郎がいたのである。
利家の厚遇を得る

 流浪の利久が利家に招かれ客将として迎え入れられたのは本能寺の変で信長が死没したあとである。ときに利家は、能登一国の大名に累進していた。利家には強力な敵対勢力があった。隣国越中の佐々成政である。むかしから成政は反秀吉党であり、秀吉党である利家を激しく敵視した。長い国境線で何度も小競り合いが繰り返された。侵入するのはもっぱら成政方で前田方はそのたびに押し返すにとどまった。これは秀吉は中央の始末がつき次第、成政を含む北国平定軍を催すことにしていたので、それまで厳に軽挙を慎んでいたのである。そのため国境の要所要所に砦を設け、守備を固めた。記録によってまちまちだが、帰参した利久は七千石、慶次郎は五千石を与えられた。もともと利家はこの甥にたいそう眼をかけていた。流浪中、奇行を演じながら、戦いのたびに陣場借りして武功をあらわしていることも聞いている。思い切って優遇したと思われる。慶次郎はしかし好意にむくいるほど尋常な心根ではなかった。出生といい、流浪といい、いよいよ屈折していたのは無理も無かった。かれは能登松尾に居城したというが、たしかにその地名はあるものの、城地としてはふさわしくない。ここでいう松尾城とは、能登と越中の境の阿尾城のことと思われる。阿尾は成政方から前田方へ帰服してきたので、慶次郎が選ばれて城代として入ったのだろう。

 小競り合いが続く戦線ながら、一気に本格的戦闘にいたるころがある。前田方の加賀・越中・能登の要の地である末森城へ成政が突如、一万五千の大軍を率いて来襲したのである。対して利家も自ら三千を率いて金沢から駆けつけた。戦史上勇名な”末森の後髪”がこれで、同一戦場に両将がまみえるというのもはじめてのことだった。結果は末森城は守り通したし、成政の大軍は退散して終わった。ときに前田方の諸砦から軍勢が末森の戦場へ馳せ参じた。が、動かぬ砦があった。他でもなく慶次郎のいる阿尾城である。城代の慶次郎は、次々くる報告を聞きも背せず、櫓の上で大鼾をかいていたそうだ。
かぶき免許

 慶次郎は早くから奇矯の士として知られていた。

「ひょうげ人にて、何事も人にかわり」(桑華字苑)
「世にいい伝える通りのかわり人なり」(重輯雑説)
「天性徒(いたずら)ものにて、一代の咄色々なり」(可観小説)

などとあってそれぞれ異風説を伝えている。

 例えば京都で銭湯へいったとき、風呂のなかへ小脇指を差したまま入った。人々は恐れをなしてみな出たところ、慶次郎は板の間に坐り、くだんの小脇指をずばと抜いた。すわとばかり人々が散るなか、悠々と垢をかきはじめた。見れば小脇差は竹べらだった。

 また、慶次郎が古紙衣に皮で編んだ帽子をかむり、脇指を一本差して京の室町通りを歩いていたところ、ある呉服屋の店先で肥満の大男が寝そべり、片足を半ば外に出して雑談している。慶次郎はそれを見ると、つかつかと歩み寄って、その膝の皿を押さえ、店の者にいった。
「亭主、この足はいかほどで売り申すか」
亭主は冗談だと思い、
「百貫にて売り申す」
という。
「しからば買いたし。金子を取ってまいれ」
と供に命じ、脇指を抜いて切り取ろうとした。大男は驚き、足を引こうとするが、慶次郎が膝の皿を押さえているから動くことができない。たちまち大騒ぎになった。町役人どもが来て詫びたが、慶次郎は聞かない。とうとう町奉行所扱いとなって事はすんだが、以来、京では足を投げ出す行為は禁制となったそうだ。

 本当に禁制になったかどうかは蛇足であるにせよ、こうした話題はつとに知られていたに違いなく、それとも当の人物が前田利家の甥御であると聞いて、秀吉が一度見たし、と呼び出した。ときに慶次郎は、虎皮の肩衣に袴も異様な物を着け、髪を片方へ傾げて結っており、面前での拝礼のときには頭を畳に横付けにした。それを見た秀吉が、
「その傾げたる髷はなんぞ」
というと、慶次郎は澄まして答えた。
「曲がりたるゆえ髷と申すなり」
秀吉はたちまち気に入った。話は面白く、はしばしに素養が感じられる。それは秀吉よりも、周辺に控えるものたちが感心したのだったが、実際、慶次郎は学問・歌道などに長け、ことに『源氏物語』の講釈、『伊勢物語』の秘伝を受けていた。秀吉はそこで、
「向後、いずこなりとも、心のままにかぶいてよろしい」
と笑って許した。人はこれを称して<かぶき免許>といった。

 この慶次郎は、秀吉の関東平定前後まで利家に仕えた。が、利家はあまりにも世を軽く見る慶次郎の態度を、しばしたしなめることがあった。謹厳篤実な利家としては当然だが慶次郎には面白くなかった。慶次郎は茶屋を新造し、神妙な面持で利家を招待した。利家はいくらかでも慶次郎の心根が直ったかと、喜んで応じた。おりから冬のことである。寒きには暖というのが茶の慣わしだから、まず風呂に案内した。慶次郎自ら湯をかき混ぜたりして、湯加減は重畳といった。利家が早速裸になり、ざぶと湯船につかって驚いた。湯気のあがっているのはうわべだけで、なかは冷水だった。利家は怒って、その者逃がすな、という間に慶次郎は”松風”という利家の愛馬を失敬して雲を霞として逃げ去った。

 しばらくは京へ上がり、飄逸気ままな暮らしを楽しんでいたらしい。夏の夕、かの”松風”を冷やしに鴨川へ現れた。往来する大小名が見事な馬に目をとめ、たれの御馬かと訊ねるようなものなら、待ってましたとばかりに烏帽子をかむり直し、足拍子を踏んで、
「この鹿毛と申すは、あかいちょっかい革袴、茨がくれの鉄冑、鶏のとっさか、立烏帽子、前田慶次が馬にて候」
と幸若を舞って答えた。
上杉家に仕官

 やがて慶次郎は、会津へ来て上杉景勝に仕官する。おりから上杉家は会津入部するまもないころで旧蒲生家の浪人をはじめ新参者が多くいた。慶次郎は以前から景勝を畏敬していたようである。かつて聚楽第で秀吉に所望されて舞いを舞ったとき、慶次郎は例の徒心から、神妙に居並ぶ大名衆の膝の上へ、どすんどすんと尻餅をついて廻って当惑させたことがあったが、景勝の前だけは素通りした。景勝は小刀を抜いて構え、慶次郎が尻餅をついたなら即座に突き刺す威勢だったからである。以来 慶次郎は景勝だけは大名らしい大名だと思うようになった。

 それでも慶次郎は利家を憚(はばか)り出家して”穀蔵院ひょっと斎”と名乗って目見得した。知行は五千石であったそうだ。上杉家には山上道久だの、岡左内だの世に名高い豪傑連中がいた。慶次郎はただちにかれらと仲間になり、さまざまな奇行ぶりを残している。林泉寺は上杉家の菩提寺である。上杉家とともに越後から移ってきたが、なにせ上杉家の帰依をいいことに威張ること甚だしい。豪傑一同もさすがに手を出しかねて、
「かの坊主の顔ほど憎いものなし。一拳、張り倒したいのはやまやまだが」
と言い合い、無念がるだけである。それを聞いた慶次郎は、巡礼に化けて林泉寺を訪ねた。庭の築山、池泉を見物し、即興の五言絶句を作って住持を感心させ、方丈で茶を馳走されるほどになった。ふと見ると、片隅に碁盤がある。すかさず碁話をしたところ、碁好きな住持は、さらば一番打たん、という。慶次郎は応じ、
「賭け事をするわけには参りませぬが、負けたなら鼻の頭へシッペを当てるのはいかがでござろう」
と約束して打ち始めた。慶次郎は初めの一局はわざと負け、住持がいやがるのを約束だからと無理にシッペを当てさせ、二番目は思うままに打ちまわして負かしてしまった。住持は約束だからと顔を出した。慶次郎は、それでは御免とサザエのような拳骨を固めると、力一杯住持を張り倒した。豪傑一同に代わり一拳を見舞ったのである。

 次は会津攻めの徳川軍を前にして上杉家中はみな奮い立った。慶次郎もその一人だったが、指物に、<大ふへんもの>と大書した。一同の者は怒った。上杉家は古来武勇をもって鳴るのに、新参者が人を押しのけて”大武辺者”を誇るのはおこがましいかぎりだ、というわけである。しかし慶次郎は慌てず、
「さてもさても諸君は学がない。われら久しき牢人暮らしにて、金銭も道具もなきゆえ”大不便者”と書いたのであったのである」
と高笑いに笑った。

 かれはまた、皆朱の槍を使用した。皆朱の槍は古来武勇抜群で、特に許された者だけが使用出来ることになっていた。上杉家譜代の宇佐美・薤塚・小野といった豪勇連にしてもまだ許されていない。当然、かれらから文句がでた。直江兼続が慶次郎に注意すると、先祖伝来の槍だとうそぶく。直江はやむなく、宇佐美らにも皆朱の槍を許した。その年の九月、洲川というところで最上方と戦ったとき、上杉方は一時に慶次郎ほか宇佐美ら五人の皆朱の槍を合わせ、希代の珍事ともてはやされた。
無心の死

 いずれもよく知られた話である。他にも逸話を残すが処世上なんの参考にもならない。慶次郎もまた他人の人生の参考になるため生きてきたわけではない。が、こうした人生があり、かぶく世の中があるというだけで楽しい。だいいち、死没年月日も場所も諸説があって不詳である。利家の嫡男利長から付けられた野崎知通という家来がいるが、その手記によれば、慶次郎は慶長十年(1605年)十一月九日、七十三歳で死んだという。そうとすれば、叔父利家より年上になる。別段、例のないことではないが、一考を要する。略譜によれば五女があり、うち一人は前田家に仕えた北条氏邦の息采女に嫁している。ほかにも前田播磨と関わりをもっているから、慶次郎は前田家の一族として最後を遂げたわけである。

 かれの人生を記した一文がある。
「考を勤むべき親もなければ、憐れむべき子もなし。こころは墨に染れども髪結うがむずかしさに、つむりを剃り、詩歌に心なければ月花も苦にならず。雲無心にして岫を出るもまたおかし。寝たきときは昼も寝、起きたきときは夜も起きる。九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八方地獄へ落つべき罪もなし。生きるまで生きたらば、死ぬるであろうかと思う。云々」"
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「えぬのくに」14号, pp. 1-28
前田銀松

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天下の奇将 前田慶次

 米沢市清水町に在住二ヶ月の間、米沢新聞社編集長の山宮広章氏、米沢図書館の方々及び郷土資料室の尾崎周道氏、荘内銀行渡会信太郎氏、置賜郷土史研究会の方々、置賜民俗研究会の人々のご尽力を得て、同姓同郷であるという因縁で、前田慶次に就いて資料を提出して戴いたお陰でこれ丈の一篇に纏めてみた。慶次の奇行ではないかとと言ふ話もまだまだあるかもしれないが、また此の資料とて慶次のものでなくて他人の行動を慶次にあてはめて慶次のものとしたのもあるかも知れないが、而し此の一篇に於いて慶次の人柄がわかればそれで幸せだと思ふ。

 通称 前田慶次
 日本一のいたずら者、身は加賀百万石、前田利家の甥と生まれながら、まじめな生活を嫌ひ叔父利家を馬鹿にして故国を去り、晩年は米沢藩上杉景勝の男気にぞっこんほれ込んで之に仕へ、米沢郊外堂森の地に隠れ住み、浮世を茶化して「生きるだけ生きたら何時かは死ぬるでもあろうかと思う」とうそぶきながら悠々として余生を送った。

 而も慶次はただのこっけい漢にあらず、文武の才能に優れ、義は金鉄よりも堅く、名利は雪よりも淡しと言った様、数々の逸話文献を残しておる。


 前田慶次利太、通称宗兵衛、慶次郎又は慶次、諱は利卓、利益又は利治とも呼ぶ、米沢地方では慶次、利貞とまた慶次利太とも書いてある。

 天文十年(一五四一年)の頃尾州海東郡荒子に生まれ、前田利家の兄蔵人利久の養子となった、生父は滝川左近将監一益と言うが判明しない。養父利久と共に織田信長に仕へた、永禄十年(一五六七年)利久は弟安勝の娘を配し、二千貫の領地を譲ろうとした処、仝年十月織田信長の口添えで「前田家は他家の者をして嗣しむべきではない、利家は我に仕へて偉勲があるからよろしく彼をして主たらしむべきである」との主張で信長のために斤けられ、其の為に利久は前田家を弟利家に譲り嗣しめ、利家※1は剃髪して慶次と共に荒子を去って浪々の身となって十数年放浪生活を送ったと言われる。また利久の妻はその地位を去るに及んで、利家を調伏しようとしたとも伝へられてあるが確証はない。

 前田利家が天正十一年(一五八三年)四月、加賀の石川、河北二郡を増封された折、利家は利久と和し采地七千石を与へ、うち五千石を慶次に遺し、同十三年五月利家が越中射水郡阿尾城を中に入れるや、慶次をして同城を守らしたとなっている。

 同十五年八月養父利久が没し、十八年三月豊臣秀吉の命により相州小田原の北条氏征伐に利家と共に出陣し、又後年利家と共に陸奥地方の検田使を仰付かり随行したとある。此頃までの慶次は普通の人の何等の変わりもなく平凡な生活で、何の奇行も脱線もない、それに前記の通り妻もあり、其の間に一男五女が生まれたと言ふが、どうして慶次が奇行に走らねばならなくなったのか、十幾年の自由奔放の放浪癖がもたげ出してきたのか、彼の奇行はもとより天性に基づくものと思はれる。

 天正の末年頃は豊臣秀吉が一応天下を統一して小康状態を得、叔父利家は益々秀吉に重要され、徳川家康に次く威望を持っていた。利家は慶次が常日頃世を軽んじ、人を馬鹿にする悪い癖のある事を知り、口やかましく之を戒めていたのであるが、慶次にしてみると之が馬鹿馬鹿しくて面白くない。どう考へてみても我慢ができない、どうかして四角四面の顔をしている利家の鼻をあかしてやりたいと、色々思案をこらした末、或時利家の前に出て

    「私奴も是迄は叔父上に御心配ばかりかけ通しで申訳ありません、之からは心を入れかえまじめな人間になりたいと思ふので、ついては粗茶を一服差し上げ度く、何日何の刻、私宅まで御出をお待ち申し上げます」。と申し入れた。

之を聞いて利家も大いに喜ぶ、さては慶次奴も心を入れかえたか、もとより文武の道に優れ、人間も馬鹿ではない彼のこと、もう少しまじめな人間にさえなって呉たら、此上もない頼もしい奴である。と当日は約束の刻限にいそいそとして慶次に家にいった。

 慶次はうやうやしく叔父を出迎え上段の間に招じた。元来慶次は文学を好み、学和漢に通じ、源氏物語や伊勢物語などの古語にも通じ歌道にも優れ、又其頃流行した連歌を紹巴に学び、茶道は古田織部に受け、且つ乱舞にも長じていたと言ふから其の才能もうかがひ知られる。

 まず利家に対して謹んで茶を献じ、さて慶次が申すには、
  「今日は殊の外寒うございます。
  これから一献さし上げ度いと存じまするが、それに先だち一風呂お召しになっては如何でございますか、丁度加減もよろしいかと存じます」。と言ひながら風呂場へ下り、手を浴槽に入れ、寒からず春季の温なりと申せば、そうか、それはよく気のつく事じゃ、此の寒空には何よりもの馳走じゃ、と利家それが故為であるとは知らず、素裸となりて中に入ると、湯加減と思ひきや氷の如き水がなみなみと湛えてあり、窓の破れ目から寒風が吹き込むしまつ、さすが温厚の利家も怒り心頭に発し、
  「慶次奴を逃がすな」、と供侍にどなった。

 一方慶次は此時裏口につないであった松風といふ駿馬に鞭うって雲を霞と逃れ、行衛をくらましてしまったと、富田痴竜翁の三州遺事にもその当時の慶次の詞として、
  「萬戸候の封といへども、心に叶はざれば浪人に同じ、唯心に叶ふを以って萬戸候とす、去るも留るも適意を楽と思ふなり」
と只々野放しの自由の天地が慾しかったのだろ、四角張った叔父利家の前にかしこまっているのが嫌で嫌でたまらず、とうから見切りをつけていたのであるが、慶次も人間である以上、此の人間の枷の中から抜け出る事が困難であったろう、ただ利家が決して憎いわけのものでもなく、嫌いなわけでもないが、せせこましい檻の中に生息する武家のかた気が、どうも堪えられなかったのだろう。

 斯うして、慶次は京都の一隅に仮の宿を定め、そして二三人の下僕を雇ひ、朝夕駿馬松風の手入れを怠らない。そればかりでなく、此の馬に贅をつくした馬具を付けさせ、鴨川原を乗廻すことを日課のようにしていた。その服装たるや、烏帽子、赤衣、赤袴を着し、その頃流行った「幸若」と称する唄を節面白く謡する。時は戦国の世なれば、世人は皆馬をみて持主を評価する折り柄だったので、此の馬を見る者はその主をと問はるるたびに、下僕は悠々として扇を開き、

    「赤いちょっかい、革袴、鳥のとさかに立烏帽子、前田慶次が馬にて候」、と謡ひ、そして舞ふので、慶次の名声は京洛に騒がれていたといふ。

 其後も毎日退屈な日々の続いた或る日の事、夕刻になると毎日付近の風呂屋へいっていた。その付近は諸国より集った大名の屋敷があり、それ等大名に仕へる家臣共が多く、毎晩入り代り立代り入浴にやってくる。どれもが戦場で玉薬の臭いをかぎ、前傷だか後傷だかを一つ二つは持っているといふ無骨や輩である。されば彼等の寄る所は必ず戦場の自慢咄し、やれ敵の大将を突き伏せたとか、兜首をいくっとつたとか、ありもしない手柄話が持ち出され、慶次はいつもこれらの輩に伍して自慢話を聞かされるのがおかしくてたまらず、忽ち一策を案じ、或時褌の上に脇差を一本ぶちこみ、そのままザンブと許り湯槽の中にとびこみ、ただだまってジロリジロリあたりをねめ廻して居る、何とも得体の知れない変な男だ、馬鹿か気狂いかわけがわからず、脇差をさしたまま風呂へ入るとは古今未曾有である。而し其の風貌をみれば人格骨柄いやしからず、一癖も二癖もありそうな武士である。力自慢の田舎武士共にとっては此の傍若無人の慶次の態度がしゃくにさわってたまらず、さればといってこちらから進んで喧嘩を仕掛けるのも何となく空怖ろしい気もする。そこで彼等もひそかに語りあった結果、此上は致方がない吾々と脇差をさして湯に入ろうと相談が一決した翌晩から、彼等は揃って脇差をさして湯に入った。慶次は勿論何時の通りの姿である。そして頃合を見計らって湯から流し場に腰をおろし、脇差を腰から抜いてやおら鞘を払った。すは事こそ起れり、武士共は一斉に湯槽から出て互いに目くばせをして抜き合わせようと身がまえた。慶次はとみると顔色一つ動かさず、くだんの抜き放った脇差の中身を脛や足の裏にあて、丁寧にゴリゴリ垢を落としておる、真面目くさってにこりともしない、よく見ると件の中身は真剣にあらず竹光であった。竹光を以って足の皮をこするとは、成程うまい趣向である。武士共は今更怒るにも怒られず眼を見合わせてパチクリさせて居るばかり、掛替のない真剣の脇差をあたら湯槽に入れてだいなしにしてしまった、いたづらにしては随分念がいりすぎておる。

 慶次がまだ京に居た時の話として伝わって居るものに、豊太公の館、伏見邸(大阪城ともいふ)に於て、或時諸国から集まって居る名だたる大名を招待し、一夕盛宴が催された際に慶次も此の席に待った。元来が無遠慮の人間であるからどこをどう紛れこんだか、此の席の一員としてつらなった時のことである。

 秀吉主催の大宴会のことであるから、諸国から集まった大名綺羅星の如く一席に列った。宴まさにたけなわ折しも、末座から猿面を附け手拭を以て頬かぶりをなし、尻はし折り扇を打ちふりながら、身振り手振り面白お可笑しく踊りながら踊りだした者がある。是れなん余人ならぬ慶次であった。そして並んでいる大名の膝の上に次々と腰かけて、主人の顔色をうかがふのであるが、もとより猿に扮した猿舞の座興であるから唯一人として、之を咎める者もなければ、怒り出す者もない、浮田中納言秀家、徳川内大臣家康、毛利中納言秀元、伊達宰相政宗と、処が上杉中納言景勝の前へやってくるとそれを避けて、ひょいと次の前田大納言利家の膝の上に乗ったとある。後で慶次が人に話った所では、景勝は己れと短刀を膝の下において、田楽ざしにしてやらんと待っていたと、天下広しと雖も吾れ主を求るなけば会津の景勝をおいて外にない、景勝の威風凛然として浸すべからざる物があったと伝へ語ったといふ。

 表裏反復常ない戦国時代、陰も日向もない心から吾が信頼する人の為に、あく迄も義を貫き通す精神に満ちている武士らしい武士は上杉景勝ただ一人あるのみと、此の点を深くほれ込んで、各藩から慶次を高禄にて召仕へて慾しいとの申出を断って、兼てから京都に於て学問好きな直江山城守兼続と交際があったのを利用して、肩のこらない仕官ならしてもみたいがと景勝公に仕官を求めた、禄の高下をいとわない、只自由に務めさせて慾しいと言って進退を直江に一任したとあった。其後慶長三年景勝が会津移封の後のことである。慶次は千石の禄を与へられ組外御扶持方という一風変わった者の集まりであった。

 各国の藩の浪人共の寄り集まりで、佐竹藩の浪人丹波、蒲生藩の浪人岡野佐内などといふ者達の集まりで、直江山城守兼続の遊撃隊であった、そうした変わり者組に一層の大変わり者が隊長となったのも面白い。

 会津に来て初めて景勝公に御目見得した時には、頭を剃って法体となり、黒色の長袖を着用し穀蔵院瓢戸斉と称していた、其時の御土産とて土大根三本を盆の上にのせて差し出したとある。そして申し上げるに、

    「私奴は此の大根のように見かけは如何にもむさ苦しうはございますが、噛みしめると滋味が出て参ります」、とにこりともしないで言ったといふ。



 或る時のこと、志賀与惣右ェ門、栗生美濃守等と相会して酒交の席で、如何に慶次殿が武勇があると申しながらも、林泉寺の尊き御僧をたたくことは出来まいと言ふ、元来林泉寺は越後春日山にあった寺でそれを会津に移し、更に米沢に移したものであるが、格式が高く米沢領内にある寺院の総支配をする位置にあったもので、当時の和尚の名も明かでないが、領主景勝の帰依厚く和尚も其を良いことにして、平常頗る尊大にかまえ、接する者何れも小面憎い思ひだった。それを聞いた慶次は、早速例の戯気を出して、早々に雲水の姿に身を変へて林泉寺を訪れ、お庭拝見を下番の者に頼み入れば苦しからずとのことで、庭を一覧し国中無双の庭なり、向ふの山を抱いた庭、水のとり入れよう、樹木の植方など誠に風流佳趣を得たり、と頻りに賞めそやし和尚様の御指図がよく行届いて居るとみえて、得もいわれぬ風情でござると歎美して止まず。

 此時、書斎にて聞いていた和尚は、大いに気をよくし、小僧に煙草の火でもやれと申し付ければ、小僧は煙草盆を椽に持ち出してもてなせば、慶次恐縮して謝辞を述べ、よもやまの話に興じているうち、ふと座敷の片隅に置いてある碁盤に眼を注ぎ、これは珍しい碁盤と見受けるので、一度拝見したいと小僧に申しければ、小僧の持ち来た碁盤や石を見て、これはこれは碁盤と言ひ、石と言ひ実に結構なものでござると褒めちぎるので、和尚も嬉しくなり、小僧を呼び、彼のご人碁を打ちなさるかと尋ねさしければ、慶次はここぞとばかり、
 「碁は食事より好きだが下手の横ずきでござる」
と申せば、和尚はこちらへ通じて一番所望を告げしめる。
 「私のような未熟者がご住職様の御相手を申しあげるなど、なんとも恐れ入った次第でございます。
 ぶしつけながら一局ご指導を戴き度いと存じます」
とおそるおそる申出た。

 和尚も暇を持てあましていた事でもあり、もとより好む道よろしかろうと、盤を中にはさんで向い合っていたが、慶次は何事かを思案して、おそるおそる和尚に向って、
 「こんな事を申し上げては本当に失礼千万ではございますが、只碁盤の上での勝負を決めるだけではなんとなく張合がございません、依て何か一つ賭けることに致してはどうでございませうか」
と申し出た。
和尚はこれを聞いて笑ひながら、
 「さてさて妙なことを言はれる、一体なにを賭けようと言ふのか」
と尋ねると、そこで慶次は、
 「勝った方が負けた方の頭をそっと一つ叩くことにしては如何でございませう」
と申出た。和尚は、
 「僧間にして人を搏つ事は仏の教旨に背かん」
と申せば、慶次は、
 「碁にて負くる者は結極は大悟徹底せざるによるもので、喝棒一加亦妙ならずや」
と申せば、和尚も、
 「それもそうだ、それではそう決めようか」
と答へて話は決まった。
そして初めの一局は手もなく和尚の勝となった、慶次は和尚の前に頭をつき出し、
 「サァ、和尚さま約束でございます、どうぞ私の頭をお打ち下さい」
といふ。和尚は、
 「わかった、わかった、それでよい、沢山ぢゃ」
といふ、が慶次はどうしても聞かないので、和尚はそれではといって、そっと慶次の頭を軽く一つ打った、もう一局お願ひ申しますと言ふので、改めて対局となった。そうすると此度は先程の慶次とはまるで別人の如く、今度は慶次の勝となった。和尚は頭を慶次の前にさし出し、
 「さあさあ、今度はお主の番ぢゃ、わしの頭を打って呉れ」
と言った。慶次は打とうともせず、
 「いやいや勿体ない、和尚さまの頭を打とうものなら仏罰が当たります」
と言って、どうしても和尚の頭を打とうとはしない。和尚は、
 「それではわしが困る、遠慮なく打って下され」
と言ふ。

慶次は暫く手をこまぬいている風であったがやには立ち上がり鉄拳を固めて真甲から和尚の眉間へ打ちおろした。何条堪ろう、ウーンと言ってのけぞり、其のまま気絶してしまった。それ水ぢゃ、薬よ医者じゃと寺中大騒ぎとなった。一方このどさくさにまぎれて慶次は姿をくらましてしまった。
このことを一座の面々に話したので皆は慶次の豪胆さに驚きと微笑を送ったと言ふ。


 慶長五年八月関が原の戦の前、徳川家康は全国の諸大名をして会津上杉景勝討征の軍勢を率いて大阪城を発し野州小山に陣を敷き、先鋒に秀忠は宇都宮に進駐し、仙台の伊達政宗、山形の最上義光、越後の堀等は背後から、一方上杉景勝は常陸の佐竹と協力して徳川家康の軍勢を挟撃する手筈を整へ、景勝は家康の軍勢を白川の南方革籠原へ四方より追ひ込んでみな殺にせんと、自ら数万の軍を率いて若松城を出西南長沼に陣し、直江兼続は三万余を率いて野州塩原に陣をしく、かくて戦期の熟するを待ったが家康勢は一歩も進展せず只にらみ合っているばかりだった。

 家康は上杉には謙信公以来の譜代の勇士が五万余、それに諸藩の浪人が三万近くが決死の覚悟である、それに向っては到底勝算が無いと漏したと言ふが、老獪極りない策略を持つ家康がそんなことよりも上方に居る石田三成の動静であった。豊臣の美名にかくれて家康討伐を名として徒党を糾合して挙兵の準備の時を稼がすためであった。そして石田を滅して徳川の天下をつくることが総ての家康の策略であった。

 そうした時慶次は直江兼続の遊撃軍の隊長として朱柄のやりを持ち、背に匹練の旗印を負ひ、旗には「大ふへん者」の五文字を題して威風堂々たる姿で部隊の指揮にあたっていた。同列の平井出雲、金子次郎左ェ門等が慶次の旗印を見て憤り、吾等は上杉謙信公以来の譜代の将として武勇を以て天下に誇っている者であるが、それになんぞや慶次は新参者なるに「大武遍者」といふは、これ上杉家の将士侮辱したも同様なれば、旗を折らしてしてしまへと兼続に進言した。慶次は高らかに笑って言ふに、諸士は文字に疎いとみえる、清むべきを濁り、濁るべきを清み、読みて大武遍者となすのであろう。何と通じざること甚しい、吾は郷を遠く離れ来りて客人となり、家に妻もまた妾も居ず、出陣だと言っても子供も下僕もいない、故に「大不便者」たるを表し諸士の同情を求めるのみと話せば、多くの将士も茫然としたと言ふ。

    「註」 此事が伝へられて、室町時代から、安土、桃山時代にあった説話を収録した安楽庵策伝、鈴木棠三校注(角川文庫発刊)の「笑睡醒」と言ふ書に、武辺者でなく「不便者」だとして書かれてある。
    ある侍の指物に「ふへん者」と書きたり、家のおとななる人見付け、これはさし出たる言葉ととがめければ、私の心持かくれもなき「ふべん者」ぢゃと述べた、と
    思ひ上がった武辺者と読めるので、高慢らしいと非難した、不便者、不自由、不如意な者との意味だとある。

八月四日になって家康は急遽小山の陣営を退いて江戸城へ引きあげ、そして上方へと向った。
九月十八日関ヶ原に於て天下分目の合戦が行なはれ、石田軍の大敗となった。
此の時兼続は景勝に対して徳川追撃を進言したが、之は聴き入れられなかった。其の腹いせに兼続は山形の最上義光を攻ることを決めた。関ヶ原の戦の前、九月八日のことだ。

 それは山形城主最上義光は腹黒い男で、表面は徳川家康に款を通じながら、裏面では上杉軍の襲撃を怖れて書状を景勝のもとに送って他意なきを示していたが、兼続は二万の兵を率いて米沢城を出発した。

 荒砥の先、萩の中山口より進み、山形の居城である畑ヶ谷城(現東村山郡谷沢村)を四方より取囲み、向ふの山上より鉄砲を打ちかけたので、同月十三日城は陥り城将江口光清は自刃した。一方掛入石、山中口より進んだ別軍は直に上ノ山城に迫り、畑ヶ谷城を陥れた直江軍は更に長谷堂城を攻撃したが両城とも頑強に抵抗して未だ陥落しないが、最上、村山地方に散じてている白岩、谷地、寒河江、入沼、左沢、山辺、延沢、長崎、五百川、簗沢の諸城は悉く陥落して、残るは山形の本城、中ノ山、長谷堂の城だけとなり、最上氏の運命も風前の灯といった有様だった。

 九月二十九日になって関ヶ原で石田軍が大敗の通報が会津の景勝のもとに届いた。更に直江兼続にも通報され、景勝より軍を引き揚げる命令を受けて直ちに全軍に停戦の命令を発して、十月四日、陣小屋を焼き払ひ、敵の追撃を退けながら十月六日米沢へと引き揚げたのであった。此の戦に遊撃軍として出征した、佐竹の浪人岡野佐内、それに蒲生藩の浪人車丹波慶次の友人安田能元等と共に其の働き振りは一きわ目立ち衆目を驚かしたと伝へられ、直江軍の引き揚げに際しては常に殿をつとめ朱柄の槍を揮って追撃軍を退けたのは見事な働き振りで敵の首数十を数へたと伝へられる。慶次の着用の甲冑は朱塗りで一種独得の型を持った珍しいもので、後上杉家の有に帰し上杉神社の所蔵品となっている。

 関ヶ原戦後天下の大権は全く徳川家康に帰し、反徳川の諸大名は直接に関ヶ原に関係があると否とにかかわらず、多くの諸将は争って家康に物資を送り、降を請ふて鼠伏足恭し、家康の風下に立つ者の多い中に、景勝は敗戦を聞きつつ屈せず、抗戦年余にて和を持ちて兵を収めた。その景勝の武勇を讃えてわが主とする方は、此の上杉景勝をおいて外になしと、外の大名より高禄にての招聘を断ち、直江の旧領たる伊達、信夫、米沢の三十万石の大名に転封されたとき、飽迄も景勝と運命を共にしても少しも悔いることなしと、僅か二百石の捨扶持を受け、郊外八幡原堂森(米沢市万世橋字堂森)肝煎大郎兵衛の別墨に庵を結んで無苦庵と呼び、此に隠栖し悠々琴書を友とし、日月を楽しんで余生を送った。現在同地に館跡及び慶次清水などを残す。

   無苦庵の領
「抑々此無苦庵は孝を勤むべき親もなければ、憐れむべき子もなし、心は墨に染ねど、髪結ぶがむずかしさに頭を剃、手のつかひ不幸公もせず、足の駕籠かき、小物(小者)やとわず、七年の病なければ、三年の艾も用ひず、雲無心にしてくきを出づるも亦可笑詩歌に心おかねば、月花も苦にならず、寝たければひるも寝、起たければ夜も起きる九品蓮台に至らんと思う、欲心なければ、八萬地獄に落る罪もなし、生るまで生たら、死ぬるであろうと思ふ」

と慶次が無苦庵の壁に貼出してあったのを、死後神保蘭堂が古くしみになっているのを写し取ったものとされている。また一説には深草元清坊の壁書は此慶次の領を焼直したものであるとされている。


堂森での逸話に、
 慶次が堂森で雇っていた下僕に吾助といふ若者がいた。苟も二百石取りの武士であるから、従僕の一人や二人は無論居た筈であるが無苦庵の領に、「手のつかい不奉公もせず、足の駕籠かき小者やとはず」などと言っているが、其は自分の身の廻りの事は出来る限り自分でするといふ意味に過ぎない。

 米沢藩では二百石以上の禄取りは必ず馬を飼育し厩も仲間も居るのが普通であるが、慶次のような不精者は馬を飼う程の禄を取っていないから牛を飼って居ると言って馬揃の時牛に乗って出た話もある。之など慶次の戯気取から出た事と思ふ。

 従僕の吾助はまことに従順且忠実な男であったが、余りの信心に凝り過ぎて、寝るにも起きるにも又何をするにも「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を唱へる癖があった。慶次はこれがうるさくて堪えきれず、頭からがみがみ叱るのも何となく曲がなく、其処で一計を案じ、格別に用もないのに、朝から「吾助吾助」と何十遍でも呼び続ける、その度吾助は「ハイ何御用でございますか」と返事をすれば、慶次は「いや別に用はない」と答へる。そして又もや「吾助、吾助」と呼ぶ。さすがの吾助も之には全く困りはて、或る日改って、「旦那様私の名をお呼びになるのは結構ですが、格別ご用のない折りはお呼び続けになる事は止ていただくようお願ひ申し上げます。」と申し出た。そうすると慶次は、「それなら拙者からも言うて聞かせる事がある。お前が仏さまを信心してお念仏を唱へるのはよいが、寝ても覚ても、屁をひってもお念仏を唱えては、さすがの阿弥陀さまも返事がしきれないであろう。阿弥陀さまに御迷惑をおかけしてよいのか、どうじゃ吾助」と此の道理がわかったと、ねんごろに諭したので「ハイ判りました、以後気をつけますから之迄の事はどうかお許し下さい」と答へて、それ以降は念仏を唱えなくなったといふ。


 堂森の太郎兵衛は旧家で肝煎を勤めていた。此の太郎兵衛が或年古い家を新しく建替えて見違へるばかりの立派な普請をしたので兼て懇意な人や、親戚などを招待して新宅祝をした。此の時慶次は上客として招かれて宴席に列った。主人太郎兵衛の挨拶があり、これから盛宴に移ろうとした時に、つと座を立ち上がった慶次は改まって述べるに、

    「此家の新宅祝を開くにあたって御家繁昌、無病息災の呪をしてつかわす」

とて、勝手から一丁の斧を持ってくるように命じた。何をするか判らないが言はるるままに斧を差し出すと、慶次はずかずかと上段の床柱の前に進み出て、エィーと一声高く呼ぶとみる間もなく、件の斧を振り上げて、其の床柱の真中にハッシとばかり伐りつけた。一座はただあっけにとられて見守るばかり、新築した立派な床柱に大きな傷跡をつけるとは狂人さただと、人々は口々につぶやいた。中でも主人太郎兵衛は烈火の如くになって怒り出した。暫くじっとして一座の様子を眺めていた慶次はおもむろに口を開いて言ふに、

    「さて、主人太郎兵衛さま、それに一座の人達も心を静めてそれがしの言ふ事を聞くがよい。総て世の中の事は満れば欠けると言ふ事が間違いのない法則である
    此の家の主人も近頃だいぶ貯めて新築した事は誠に目出度い事に相違いないが、扨て人間と言ふ者は其処が肝腎だ、是で沢山だと安心した時は既に頂点で、それから後は運が傾く一方、思ひがけない災難が後から後からとふりかかってくる。其てアッと言ふ間に身代が潰れ一家の滅亡となるのだ
    主人よくこの道理を考へよ。決して有頂点にならない此の傷ついた床柱を朝晩眺めてわしの言葉を思ひ出すが良い。
    それこそ無病息災、お家繁昌の基である」

と懇々と説いたので、主人太郎兵衛も成程もっとも至極のお言葉と肝にめいじて忘れなかった。太郎兵衛の家は其後も永く続いたと言はれる。

 慶次の戯にはそこに何かと意味が含まれている。


 慶次と特に文武ともに親交厚かった者に安田上総介能元が居た。此の能元は上杉家譜代の臣で若い頃景勝公に従って新発田城主新発田尾張守重家を攻めた時に新発田勢の反撃に遇った。殿をつとめていた能元は敵兵の包囲に陥り、その折りの戦に馬の前鞍の洲浜兵穴より内股を槍にて突き上げられたが、能元はことともせず太刀に敵の首を打落とし、猶も奮戦したが、今朝未明からの合戦に粮をつかふ隙もなく諸兵飢え疲れ、大沼の辺で二陣にゆづり引退く。手巾にて疵口を巻き諸兵を休めけれども陣場は遠し喰物はなし、いかんせんとせし処に昨夜葬たるとみえ、枕めしを白木膳に添へてあり天の助けと思ひ、団子は能元へ飯は諸兵が分ち食ひ少い食だったが腹を足し、馬引き寄せ旗を立てて進め、ときの声を揚げて攻め寄せければ、又三の字が来たと恐れて(能元の旗印)ひるむを見て縦横に敵を追ひ散し遂に勝利を挙げ、槍疵のためにビッコとなり、いつかビッコ能元と呼ばれていた。会津百二十万石時代には会津三奉行の一人に挙げられ、関ヶ原戦後は勝敗を度外において老獪家康と一戦を交へようとする主戦論者であった。晩年大阪陣にも従軍して目立った働きをした。その反面能元にも文学のたしなみもあって慶次としばしば深交を重ねていた。後安田家は先祖の姓である毛利姓を名乗り、上杉家が米沢十五万石に削封された後も二千石の高禄者であったといふ。

 その能元との連句が残っている。
         連 句       
        しののめや花にかかれる山のつら        利貞(慶次)
        みだれあひたる風の青柳        能元
        氷とく池のささ浪よどみへて        〃
        いわほのかたへねるる鴛鴨        貞
        静かにもいてて日かりや移るらん        〃
        をきまよひぬる月の夕露        元
        時雨行重への草に色つけて        〃
        陰すさましき松の一むら        貞
        入合の鐘を嵐やさそふらん        〃
ウ        入堂たたへたる竹かきのおく        元
        敷積る庭の遺水あせはてて        〃
        みちはそこ共しら雪の暮        〃
        ?(竹かんむりに「煮」)鷹の手はなす行衛尋佗          〃
        むら鴉なくおち方の山        貞
        明るを風の度々立ちそひて        〃
        かつはれにける月のうき雲        〃
        かたへにふる里や分さらん        〃
        あたりにたかきさをしかの声        元
        守りつくす田面の原の秋暮て        〃
        露霜はたたしけきまる        貞
        橋板やわたし捨つつ朽けらし        〃
        旧はてにたる古宮の内        〃
二        一とをり杉の下風吹過きて        〃
        雫うちちり草みとりなり        元
        夕立の名残涼しき山の陰        〃
        ひかり幽に螢とぶみ申        〃
        短夜を月を待まや長からし        〃
        伴ひつつも端居せし袖        貞
        暮るまで学ひをするも猶あかて        〃
        をしまによりて労休むる        〃
        例ならぬ身の終への哀しれ        〃
        筆もこころの程は及ばす        元
        頼つる便も今はおぼつかな        〃
        おふしたつるもいはけなし        〃
        種置し筐の菊はいつさかん        〃
        朝な朝なに露そふかむる        貞
二ノウ        薄霧のまよへるままに消申きて        〃
        山のはしろく月そうつろふ        〃
        くるるより清見か浪や帰るらん        〃
        猶あへましき三保のうら風        元
        釣舟はこなたかなたにさしすてて        〃
        おりたく柴のかけそほのめく        〃
        駒いはふ家路やちかく成ぬらし        〃
        雨は晴つつつづくさとさと        貞
        生そふる竹の林の陰ふかみ        〃
        ねむらもとむるとりとりの声        〃
        山水やなかれ流し末ならん        〃
        みなれぬ布も落つる滝なみ        元
        花誘引あまつ風春風きほひきて        〃
三        暮る野は?(享鳥)の床やかへけらし        〃
        くちにし袖の色をみせばや        元
        恋しなんことを哀と誰問ん        〃
        おこたらずしも願ふ後の世        〃
        朝さむき月にはいとどめもあわて        〃
        冬まてはやはのこる桐の葉        貞
        さひしくも古井の水を結ひ上        〃
        秋のゆふへのかたはらの寺        〃
        色々の鳥はやとりに鳴よりて        〃
        をと身にしめる野風山風        元
三ノウ        旅なると思ひやるにも涙落        〃
        なからふとてもよはひいい程        〃
        諸共にしづまは沈め生田河        〃
        かくみたれある中はかなしも        貞
        花ちちはやとうし物を一夜ねて        〃
        山はかすみの雨になるくれ        〃
        音にそなく春を惜むか帰鷹        〃
        おり居しままにあさる夕鶴        元
        往来する袖もたへけり月更て        〃
        舟つなぎぬる秋の河岸        〃
        山はおくらの霧深き陰        貞
        いつくとか声をするの帰らん        〃
        暮れぬるままに風ぞしづまる        〃
        敷雪の軒のむら竹埋れて        〃
        さらにとりはもそなき        元
        あしあと語れば心慰め        〃
        なにはのことも夢も成行        〃
        移しぬる都も今はかたはかり        〃
        けふりはためるしほがまの跡        貞
        海原やそことも分す暮ぬらん        〃
        のへふせる松の下枝木々くれて        〃
        かよともなき苔のかけはし        元
        往山を出しとしもやおもふらん        〃
        此秋はたよを月にうかれき        貞
        暮るより撰び残さぬ虫の声        〃
        末野の露に袖そつるる        元
ウ        春雨に咲やと花に行かへり        〃
        鶯はまた里なれもせず        〃
        炭やくへふり嶺にかたよる        貞
        そきおとしたる黒髪のうち        〃
        おひたつやうゐかうふりの程ならん        〃
        以上(原文のまま)       

 の連句はいつの頃の物かは知れないが、能元はひまをみては堂森の慶次の無苦庵を訪れてはこうした詩歌を楽しんだそうだ。


 或る年の春の晩れ、堂森の慶次は能元を招待した。四方を取囲む高山の雪も次第に消えつくし、近くの山にはもう雪のかけらも見られず、吾妻や飯豊の高山にはまだまだ白いものが斑に残っておるが、里にはも青草がぽつぽつ生え出し、木の芽もはやいのは淡緑色に萌え初め、微風が春の気分を話しかけてゆく頃の事。

 慶次は
 「山桜が盛りと咲き乱れておる、此の好時節になにはなくとも一献汲み交わ度い、どうぞ御出を待つ」

との招待の書状を手にした能元は大いに喜んで、僅かの近臣を供に馬で慶次の家をおとずれた。家に着いてみると悉く戸締りがしてあり、戸を叩いても返事がない。さては慶次奴に一杯喰されたかと大いに憤慨しかけた折、頭の上から「安田殿、安田殿」と呼ぶ声がする。何者ならんと見上げると庭の柿の大木の上の方に枝につかまっているのが慶次其の人で、「前田殿、そんな所で何をして居るのか早く降りて来い」と大声でどなった。慶次はするすると木から降りて能元の前に立ち一礼してから、

    「本日は折角お招き申し上げたのに別格の御馳走もござらぬでそれで雁の吸物でも造らうかと考へ、先程から木に登って雁の飛んで来るのを待っていた次第でござるが、あいにくと本日は一羽の雁も飛んで来ない。
    まことに申し訳がござらぬ」

などと白々しく言ふのであった。

 其の頃米沢地方には雁などが飛んで来たのであへて珍しくないが雁の吸物は珍味には相違なかったろ。

 彼此している内に向ふの山の麓に漫幕をめぐらし、其の中から笛や太鼓などの囃し声が賑やかに聞えて来たので、能元は何事ならんと耳をそば立てていると、慶次は彼の手を把り、「安田殿はお待たせ申した、いざこうござれ」とばかり、かの漫幕の中へ案内した。導かれて能元は驚いた。これは如何に数十枚もの莚をを敷きつめ、其の上に一面の緋毛氈を敷き、珍味佳肴を山の如く並べ酒は泉の如くと言う有様、先程の囃の音は慶次が雇って来た芸人共であった。其で能元も初めてわけが分り、さすがは慶次だけあると改めて喜ぶやら褒めるやら、お互いに心おきない間柄終日供侍や芸人共も交って呑めや唄への、どんちゃん騒ぎの無礼講、常日頃は至って質素な暮しをしておる慶次ではあるが、こんな時には金銭を惜しまずに散財したものとみえる。


 慶長七年四月二十七日、景勝が会津から米沢へ転封になった翌年のことである。

直江山城守兼続が、春日元忠、前田慶次、安田上総介能元、宇津江朝清、千坂長朝、京都の僧泰安、大国実朝、来次氏秀等二十余名が米沢郊外亀岡文殊堂に遊んで詩三十三首、和歌六十七首合わせて百首を詠じて奉納した。

其の時の遺詠が今も文殊堂に珍蔵され、戦国の佳話として永く伝へられておる。その中に利貞とされているのが慶次の作である。


        船  過  江                  利貞
  吹く風に入江の小舟漕ぎきえて
          かねのをとのみ夕波の上

        樵路躑躅                    利貞
  山柴の岩根のつゝじ刈りこめて
          花をきこりのおひ帰る路

        暮  鷹  狩                  利貞
  山かけのくるる交野の鷹人は
          かえさもさらに初日白雪

        閨  上  霰                  利貞
  ねやの戸は跡も枕も風ふれて
          霰横きり夜やふけぬらん

その折の能元の和歌は、

        寒  庭  霜                  能元
  枯残るすすきをしなみ置く霜の
          深き朝気の庭の寒けき

        薄  暮  煙                  能元
  真柴たく煙も雲も夕暮の
          風のまにまになびく空哉

        五  月  雨                  能元
  日数へてふる五月雨に小舟さす
          むかひも遠し佐野の中川

        梅有遅速                    能元
  我宿の一本の梅も日のうつる
          雨の枝や先咲ぬらん

慶次の詩は、

        後  朝  恋
  鶏報離情暁月残    送君内外独長嘆
  可知尺素墨痕淡    別涙千行不得乾

        瀟湖夜雨
  古渡沙平漲水痕    一篷寒雨滴黄昏
  蘭枯恵死無尋処    短些難招楚客魂

  瀟湖聴雨宿孤舟    滴々分明千斛愁
  虞舜不沖天亦泣    余声酒竹半江麗

などが残されている。



 或年米沢城下の町に一人の無頼漢が時々現れて、つまらぬ事に因縁をつけて喧嘩を売っていくらかの酒手をゆすり取るのを常習としていた。其男の容貌は見苦しく殊に鼻毛を長く延しておるので、あだなを「ハナゲ」と呼び人から毛嫌いされていた。

兼て此の事を耳にしていた慶次は、或日偶然にも町中で其の「ハナゲ」に出遭った。
そこで慶次は、

 「アーこれこれいい処で出遭った。かねがね噂には聞いていたが、
 実は其方に頼みがあるが聞いてはくれまいか」
 見れば立派な風采をした一人の武家が従僕を召しつれてこう言葉をかけるので、「ハナゲ」は立止まって、
 「私奴に何かご用でございますか」
と言ふと。
 「実はナ、其方の鼻毛が慾しいのだ。其には少し訳がある。人間のものでないと役に立たない、そちの鼻毛は実に見事である。どうぢゃ其れを私に売ってはくれまいか」
と慶次は言葉をかけるので例の「ハナゲ」は、
 「ハァー何のご入用やら分からぬが、売って呉れと御仰るなら売って上げないものでもござらぬが」
と答えた。
 「そうか承知してくれるか」
と傍へ近寄り、つくづく其の鼻毛を見ていたが、
 「実に見事な鼻毛であるが惜しい事に少し短い。もう少しの所じゃ、其でもう一ヶ月程たったら丁度伸びるだろう。そうしたら金一両で買ってとらす。今日の処は手附金として半金の二分(壱両の半分)を渡す」
と言って懐中から一分銀二枚を渡し、一ヶ月程経て堂森の前田の家を訪て参れと分れた。何しろ其頃の一両と言へば相当の金高で、米沢では米が一四五俵も買えた折りであるから「ハナゲ」は大喜び、二分の金を幾度も押戴き、必ずお尋ね申しますと約束した。

 やがて一ヶ月も過ぎた頃「ハナゲ」は堂森の慶次宅へいそいそとやって来た。慶次はこれを出迎へて、
 「オーよくやって来た、どれ鼻毛を見せろ少し伸びたか」
と言ひながらつくづく鼻毛に見入っていたが、
 「ウー、だいぶ伸びたようであるが、惜しい事にまだもう少し伸ばし度い。そこで今日は少し肥料をやる。そうするとズンズン伸びるから暫時辛抱せよ」
と言って庭に莚を敷き、「ハナゲ」を仰向けに寝かせ、家来に命じてその手足をしっかり抑へつけ、他の家僕に命じて例の薬を持ってきてかけてやれと言った。

「ハナゲ」は何をされるやらわけは分からないが金が貰えるのだから暫くの辛抱だとされる儘になっていた。処が何をするかと思ひきや、薬を持って参れと命じられた一人の下僕は、裏の大便所から大きな柄杓に黄金水を波々とたたえて持って参り、仰臥してる「ハナゲ」の顔に真っ向からジャアジャアと注ぎかけた。少し臭いが肥料だから辛抱せよと言ひながら、後から後からと注ぎかけるので、さすがの「ハナゲ」も全く参ってしまった。武士に対して下手な抵抗などしようものならそれこそ一刀両断にされる恐れも多分にある。遂には「ハナゲ」も泣き声を立てて助けてー、助けてーと叫ぶばかりであった。それを見た慶次は従僕に命じ、肥料もだいぶきいたようであるから手をはなしてやれと命じたので漸く手足は放してもらったが、顔から着物といわず黄金水でグシュ濡れになった「ハナゲ」はよろよろと立ち上がった。そこで慶次は「ハナゲ」に向って改まって言ふに、
 「之れ「ハナゲ」とやらよく聞くがよい。
 貴様は兼ねてから僅か許りの力を自慢にして、町へ出てよく町人や百姓をいじめて彼等を困らせておる由、今日はその懲らしめに少し許り薬をやった迄である。
 これ以降はふっつりと心を入れかへて非行を改めるかどうじゃ、今後万一これ迄のような悪い事をしたら、それこそ一刀両断そちの首を胴にはつけて置かぬぞ、どうじゃ今日限り改心するか」
「ハナゲ」はただもの恐れ入って、
 「悪うございましたどうか御勘弁下さい。今後は決して悪い事は致しませぬ」
と誓った。慶次は御苦労賃だと言って二分銀を投げ与えた。「ハナゲ」は金を押し戴き何度も頭をさげて引取った。

 ごろつきを戒しめるにも約束の金はきちんと与へた所は如何にも慶次らしい。

 いま迄に慶次の逸話とされるものを書いてきたが、時代差、場所人物は異って来るが、これに類似した事柄が書物に話に聞くが何れが本物か知れないが米沢地方に伝承されているもの書いてみた。


 其後慶次は数々の逸話を残して、慶長十七年六月四日享年明らかでないが、七十前後で堂森の肝煎太郎兵衛宅で終わりを遂げ、米沢市北寺町一華院に葬ったと「米沢里人談」にある。前田慶次郎菅原利太の塚は北寺町万松山一華院にあり、慶長十八年六月四日病死、又其の居村堂森の善光寺にも有ると言ふ。一華院の石塔は前年の大火の時焼失す。  とあるも現在両寺院には確証がない。

 一華院は、那須与一の後裔が千坂姓を名乗り越後上杉家に仕へて住し、後千坂対馬守景親の時に上杉景勝の米沢移封と共に従って来り、現在の北寺町関興庵の横に千坂家の菩提寺として建立したのが一華院である。

江戸結家老職を勤めるなと後裔も代々重鎮にあったが、明治維新後に至って家禄没収されてより一寺を営む力がなく、たまたま火災にあった為廃寺同様になあっていたのを関興庵では那須与一の守り本尊を祀った虚空蔵堂と千坂対馬守景勝と千坂伊豆守高信の供養等を管理し現存するが前田慶次に関するものは一切ない。また一部では会津田畑村大隅といふ百姓家で終ったと言はれ、数年前後裔だと言って医師をしている方が図書館を来訪されたとかの話もあるが確証はない。

 金沢図書館蔵書に、秘笈叢書二十五巻の中十九巻に前田慶次殿伝と言ふのがある。此は森田柿園著で柿園は平次とも言ひ、金沢上柿木畠に生れ、天保八年十一月十八日藩臣茨木主蔵忠順に召されて近習役見習より累進して御歩足軽支配を兼ね明治四十一年十二月、八十八歳で没した。其の間旧藩の事蹟に関する多くの著述の編纂を行なった人である。

 その前田慶次殿伝には歿年場所も判明しているが、何が故に異郷の土地を選んで行ったかが疑問とされるのだ。

            遺    書        (原文のまま)
    利卓公御息女、於華様戸田弥王左衛門尉方邦江契約成たまへるは慶長五年尾洲宮海へ渉ル船中にての御事なり。今茲関ヶ原御合戦の時軍散而利長卿尾洲宮海を渉らせ、勢洲桑名江越させたまへり。此時戸田方邦は殿なる故御陣の御の御船には一里程隔ておそく漕せり。利卓公此陣中に主従七人紛れ止り多年之望を全く今日にとげんと伺ひたまふに思不成空而同く宮海に溜みたまへり。船を需たまふに皆沖に出て渉るに便なし。爰に鉄棘之験さして戸田方邦の船而巳未た近し、よって船を岸によせよと声々に呼はれり。方邦敵味方を辨へされは鑓を堤へ船ばたに経て甚怒れり。利卓陳謂有てしれしを隠せりと理を説て卒爾なる由を述べ猶更船を乞ひたまへり。戸田諾して隔たる舟を漕ぎよせ終に同船し給ふ。利卓公と方邦と寛々対面すること今日初めてなり。利卓公方邦が猛勢なるに甚たならんて言ふ。我望ありと言へども今日に極めされば最早望に年なし。年爰に去れり死以とも不悔併吾れに一つの愁あり。我二女を以つ。一つは夫あり今妹みにくからず仍吾愛子と言んか、彼未だ夫を定ず。我望つきて死を定んとするに只彼を愁へり。方邦■(※2)無婦人は彼を定めたまはるべし。利長にも難面弃たまへる程にもあるへし。方邦吾言に諾したまはは我悦不遇山野に身を蟄し自落命を待て。利長の心をもやすべし。利長之我に知通を添たる意も疾くしれはなりと深く哭してのたまへり。戸田方邦其品を承知して野夫来宿の妻なし。御心易く思食せと安く領掌せり。船桑名に至り。利卓公は今心易と方邦に別れて直に高須の未知を経て大和に越したまへり。方邦凱陣之後彼息女を迎へ入ん事を案すといへども、利卓の女成故を利長卿に申兼で時節を憚り、婚姻の沙汰を言す心外に延引せり。利卓公方邦か憚りて延引するの心を察知りて翌季知通を加劦之越し利長卿江其旨を告げたまゝ猶茨木刑部は方邦に縁ある故頼たまへる年をも仰つ迄わされたり利長卿にも早く御挙容あり。御妹君の御盃ありて方邦之方江つかはされたり。
    利卓公は実は滝川左近将監一益の弟なり。利久公養子としたまより。利卓公心たくましく猛将たり。謂あって浪人となりたまへり。故に一つの望みあり(意趣は秘爰に不語)、然れも末行し次第にとろうの理によりて秀日なし。若は利長公にも背きたまはすは可然けれとも、只望をとけんと夫にも随ひたまはす。剰戦を好て後には景勝なとの陣中に至り、上杉と心を友にし望も後は恨に変じ、種々の業を尽したまへり詈度々あり、利卓公年歴て痞病発せり。時に病を保育すと号し大和に越谷に至り種々の犯惑を振舞たまふ故、世人皆価て加劦に告たり、利長卿より詈つよきによって洛の居不叶。大和の刈布に蟄したまへり。利卓公年歴て病甚し故に入道してみつから竜砕軒不便斉と号したまへり。不便斉此時に至り浅野、多羅尾、森此三人加州江戻したまへり。知通は利長卿より添渭へる謂あるへけれは我か死後を見届へしと留たまへて知通と総に下辺二人と給仕して月日を経たり。
    不便斉病次第に盛にして不治、慶長十年十一月九日巳ノ半刻享年七十三にて卒したまへり。則刈布安楽寺に葬る。其の林中に一廟を築き方四尺余高五尺之石碑を建名に、「竜砕軒不便斉一夢庵主」と記せり。俗の姓名并落命之年月は謂あって不記。利卓公の死する所を知る者なしと言んか。大和国刈布村と言所は同国の旧跡当麻寺の山を左りに西へ二里行て里あり茂林と言、夫より南江一里あり。
    右に遺言する事は、利卓公に添えられて一生の有僧をしり卒したまへるの儀も知れり。他に知人なし戸田氏すてに我か主となれり。正に弥五兵衛殿の外祖たり。巡忌此家にてかふむらすはあらん。我死てなんぢ不知といは知通何を勤たりと言ん。爰に久しき苦心の勤を空しくして剰他の嘲を需おひ又利卓公之體にも異笑をつけん。事甚口借仍て十分一と言とも只其まま葬し地落命之月日を一息一言して残す。
    旧忌追善之種と思ふのみ。利家卿、利長卿に命を奉りてより右皆秘すへき謂あれば、汝能思ふへし今の遺言子の耳に口をあてて必伝へし。彼地に至るの あらは誤て乗打すへからすと後より後に秘して伝へし。            以 上
                野崎八左衛門知通
                            七十七才   述書

       承応元年正月

 前田慶次の附隷の臣野崎八左衛門知通が書残した遺書とされてあるが、現在では刈布村とか茂林と言ふ里も安楽寺もなく此等に就いての確証もなくそれだけに慶次の晩年が美しいのかも知れない。


 慶次の遺品も多くあるが、何をおいても「道日記」は稀世の珍品として米沢図書館に蔵されている。

 慶長六年十月二十四日、上杉景勝公の一行におくれて(景勝公は十月十五日伏見を発して同月二十八日に米沢に着いている)

 原本の体裁は黒表紙にて題筌はなく、縦七寸三分、横四寸三分、紙数二十六枚五十二頁、表頁の行数七行一行の字数二十一内外、用紙和紙(普通)にかかれてある。



 (以降、前田慶次道中日記を参照して下さい)



 尚奇傑前田慶次郎所用と伝へられる具足を、米沢市小国町宮崎氏蔵を拝見し説明を聞く。

     胴、胸板は鉄の小板を堅矧にし錆色塗としたものに、赤胴の覆輪を繞らしたもので三ヶ所に三個宛て小桜鋲を打っている。
    左右三個宛の高紐孔は左右共に上部二孔にはしとど目がある。
    胸板下にオメリを設けている。
    前胴は赤塗板物七段であり、第一段には魚子地に菊唐草入の赤銅製出八双金物三個を打ち、中央の金物の左右に六ヶ所宛鬱金糸で花ガラミを設けている。
    第二段以下は六ヶ所宛紫糸菱縫を装ふ。
    第二、三、四の段には耳糸を設けているが紫色である。

    兜、前後正中に光る笠形で、黒塗板物を六段に矧ぎ、第六段に武田菱を左右二個宛打出す。眉疵、吹返、腰巻に兼ねた部分には左右一七個の四ッ目を透す。
    眉形入重ね眉疵を伴うが、兜と同様に赤銅魚子地に金唐草の覆輪を繞らす。
    錣は素懸紺糸威黒塗板五枚錣である。

    頬当、赤塗(裏黒塗)の日の下頬当て、胡麻髭植、歯型附のものに、素懸鬱金糸威の耳糸を共糸にした黒塗板物四下りの垂が附いている。

    篭手、全体を鎖地にし、肘に簟形金具を当てた小田篭手で、肩肩の部分亀甲小鰭様の鉄板を附けている。

    脛当、一三本篠脛当で全唐皮鉸具摺皮があり、立場亀甲金を紺麻布で包み萌黄の菱縫入としている。緒は紺縮みを用いている。

    袖、紺麻布の家地に、黄褐色地に藍にて彩色の魚鱗形板三六枚を置き、なほ下地に鉄板を菖蒲韋包として当てている。
    佩楯、家地浅葱絹、裏麻布の砂込佩楯で鎖地に筋打出し鉄小板を綴ったものである。

    まんてら、横筋打出し鉄板を赤塗にし、諸々に蝶番を入れて便利を計ったもので、裏麻布張りとなっている。

    (佐藤氏の解説による)

 実に若武者の具足にも優る美しい装いである。此の外に日用品の調度もあるが、それ等は慶次の使用といふ伝へだけだ。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:07:38 | 顯示全部樓層
"「米沢市百科事典」 pp. 397-398
サンユー企画 発行

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まえだけいじとしさだ 前田慶次利貞

 生年月日不詳。慶次は、凡そ天文10年(1541)の頃、尾州海東郡荒子(現愛知県中川区荒子町)の、義太夫益氏の子として生れ、加賀100万石城主前田利家の甥に当たる。幼名を利益と名乗り、初めは、通称宗兵衛といい、後慶次と改めた。慶次は利家の兄、利久の養子となり、共に織田信長に仕えた。永禄10年(1567)養父利久が信長に退けられ、長い間野に下っていた。天正11年(1583)利家は兄利久と和し、7千石の領地を与え、そのうち5千石を慶次に与え、さらに越中(富山県)の阿尾城に慶次をおいた。天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原を攻めた時、慶次は利家の軍に従い出陣した。この頃までの慶次は、何変るところもないように見えたが、世が治まるにつれ、型にはまった生活からか慶次の言行は次第に変った。温厚な利家は、慶次の奇行の数々を快く思わず、慶次は遂に家を離れ京都に出た。慶長3年(1598)年、京都に出た慶次は天下の大名と交わり、その中で文武諸般の道に通じた直江山城守兼続を知り、その主、上杉景勝公の家臣となるべく会津に向った。そして景勝公と会見の時には、既に頭を剃り、自らを「穀蔵院瓢戸斎(こくぞういんひょっとさい)」と称し、御土産として土大根三本を差し出し、「この大根のように見かけはむさ苦しくとも、噛みしめると味が出て参ります」と答えるなど、大変な道化者であった。慶長5年(1600)、最上の陣(伊達、最上の連合軍と直江軍との長谷堂城外での戦)では、戦半ばにして、関が原の敗戦となり、急ぎ引き揚げよの命が下り、ここに撤退作戦が始った。しかし最上軍は伊達軍の支援を得て、撤退する上杉軍に襲いかかった。その時慶次は、兼続の馬前に進み出て、「これ程のことは何でもありません」と、朱塗の長槍を構え敵陣に躍り込み、数十人の敵をなぎたおした。この勇猛果敢な慶次の働きは、後々に語り伝えられた。その後堂森(万世)に住み、堂森の邸を苦しみの無い庵という意味で無苦庵と名づけ、慶長17年(1612)6月4日、その多彩な一生を閉じた。享年 70才。著書として「無苦庵記」「道中日記」、また亀岡文殊堂に奉納された亀岡百首にある和歌などが有名である。万世の善光寺に供養碑あり、遺品の甲冑、手製の面、瓢などが宮坂考古館に残っている。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:07:44 | 顯示全部樓層
"前田慶次郎とは何者?

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 戦国時代を代表する「傾奇者」である、前田慶次または前田慶次郎。近年、「一夢庵風流記」や「花の慶次」などで取り上げられ一躍脚光を浴びた人物である。しかし慶次郎に関する資料は殊に少なく、実に謎の多い人物である。ここでは我々が収集した史料(「書庫」等で紹介しています)を頼りに、私(監物)の解釈による慶次郎の紹介をする。

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◆慶次郎の名前の謎?

 幼名は宗兵衛。前田慶次郎以降の名乗り(前田慶次郎○○の○の部分)は本によるといくつもあり(利益、利太、利卓、利治、利貞)、何時どのような時に用いられたかは明らかではない。また「上杉将士書上」によると、上杉家に仕える際には「穀蔵院ひっと斎(穀蔵院飄戸斎)」とも名乗っている。史料では利太、利貞の名が多く使われているようである。
◆慶次郎の出生

 前田慶次郎は旧海東郡荒子(名古屋市中川区荒子)という寒村で生まれている。出生年については諸説あり、おおよそ天文十年(1541年)頃と記された史料が多い。なお「米澤人國記」では天文十二、三年と記されている。「加賀藩史料」(現在我々の元にこの史料は無い)では前田利長によって大和刈布に蟄居させられ、慶長十年(1605年)十一月九日に七十三歳で没したと記されている。「加賀藩史料」から慶次郎の出生を計算すると天文二年(1533年)の生まれとなり、前田利家(天文六年(1537年)の生まれ)より年上となる。

 父は織田信長の家臣滝川左近将監一益のいとこ儀太夫益氏であり、慶次郎はその庶子であった。母が前田犬千代利家の兄の蔵人利久と結婚したので養子となり、利久の弟の五郎兵衛安勝の娘と配し前田姓を名乗ったのである。そして義父利久と共に織田信長に仕えた。
◆信長によって利久・慶次郎親子追放

 慶次郎の養父利久は、尾張荒子城城主前田利春(利昌)の長子であり、永禄三年(1560年)利春が没すると跡を継いで荒子城の城主となった。そして慶次郎は利久の嗣子として荒子城の後継となるはずであった。
 しかし永禄十年(1567年)十月、利久は信長によって家督を利家に譲るように命じられる。このとき信長は「前田の家、よその者(慶次郎)に渡すことは無用である。又左衛門(利家)は、忰より近習として仕え、とりわけ手柄も多い、この又左衛門に渡しなさい。」と利久に言ったと伝えられる。この一声のもと、利久・慶次郎親子は放逐されるのである。利久は封を弟利家に譲り、剃髪して退出した。このとき利久の妻が荒子城に呪詛を加えて退城したこと、城代の奥村永福(助右衛門)が利久の肉書を見ない限り利家に城を明渡さないと開城を拒んだことが伝えられる。
◆放浪の期間の足取り

 信長によって放逐されてから、利家が能登・加賀二郡の地を領するまでの間の利久・慶次郎親子の記録は無い。

 小説「一無庵風流記」ではこの期間に利久・慶次郎親子は滝川一益の元にいたと考えている。もし利家の元へ居たのなら、利家が能登の知行地を与えられた天正九年に利家から土地を与えられてもよいはずであり、与えられなかった理由を考えて滝川家に居たのではと考察している。

 また「米澤人國記」には以下の記述がある。
「永禄十年(1567)から天正十年(1582)まで、慶次郎は京都の一隅にあって堂上貴顕(とうしょうきけん)の公家や文人とも交わっていたという説がある。そこで慶次郎は和漢古今の書と親しみ、分けても源氏物語、伊勢物語の秘伝を授けられたという。連歌は当時第一人者紹巴(しょうは)に学び、茶道は千利休の七哲の一人である伊勢松坂城主古田織部正重然に皆伝を受けたともいわれている。武術については弓馬はもちろんのこと、十八般に通じていた。」

 さらに天正九年六月に荒子の住人前田慶二(次)郎が「末□」と銘のある太刀を奉納したとされたという記録があり、その刀は今でも熱田神宮の宝物館に奉納されている。もしかしたら利久・慶次郎親子は荒子城から追放されはしたものの荒子には住んでて、利家らとよく顔を合わせていたのかもしれない。
◆利家の元へ身を寄せる

 天正十年(1582年)、天下人への道を歩みつづけた織田信長は明智光秀の謀叛によって倒されてしまう(本能寺の変)。この後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は明智光秀を倒し、さらに賤ヶ岳の合戦で織田家の宿将、柴田勝家をも倒した。このとき前田利家は初めこそ柴田勝家の与力であったが、後に秀吉の説得に応じて加賀討伐の先陣をつとめた。その報酬もあって利家は能登の旧領に加えて新たに加賀二郡を加増される。この時、利久・慶次郎親子は利家より七千石の地を与えられた。利久はこの内五千石を慶次郎に分かち与えている。

 慶次郎は利家より阿尾城城主に任命され、天正十二年(1584年)に末森の合戦、その翌年(1585年)の阿尾合戦に参戦している。また天正十八年(1590年)三月、豊臣秀吉の小田原征伐が始まった。叔父の利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので慶次郎もこれに従った。次いで叔父の利家は命によって陸奥地方の検田使を仰付かり慶次郎もまたこれに随行した。この頃までの慶次郎は神妙であり、妻との間に一男五女(二男四女説あり)も生まれている。
◆単身前田家を去る

 天正十五年(1587年)八月、義父利久が永眠した。その頃から慶次郎の傾き心が出てきたのであろう。そして慶次郎は前田家出奔という前代未聞の事件を起こす。慶次郎は利家を茶の席に呼び、その際に寒い日の何よりの御馳走「風呂」を勧めたのである。しかし風呂はなんと水風呂!利家は怒り慶次郎を捕まえようとするが、既に馬に乗って逃げ去り前田家を出奔する。この時乗っていた馬が、かの「松風」であるという説が多いが、利家所有であったり、利家自慢の名馬「谷風」で逃げたと諸説ある。
◆上杉家へ仕官

 その後の慶次郎は京都に仮の住居を求めた。この時に貴賎墨客と交わりを結び、諸大名の邸宅にも遊びに出入りしたと言われている。そこで文武の道に己を凌ぐ人物として直江山城守兼続に接して交わりを深めたのであろう。
 そして慶長三年(1598年)、兼続と共に上杉景勝に仕えるのである。上杉家へ仕官した時の事を「上杉将士書上」では「景勝へ始めて礼の節、穀蔵院ひつと(ひょっと)斎と名乗る。其の時夏なりしが、高宮の二福袖の帷子に、褊?(ヘンタツ)を着し、異形なる体なり。」と記している。上杉家では一千石で召し抱えられ、組外御扶持方という自由な立場にあったという。慶次郎の仕官にあたっての条件は「録高は問わない。只自由に勤めさせてもらえばよい」というものだったと伝えれられている。
◆もう一つの関ヶ原、山形陣にて

 慶長三年(1598年)八月に秀吉がこの世を去ると、徳川家康が政権を掌握するべく動き始めた。慶長五年(1600年)に家康は上杉討伐に会津に向かった。ところが徳川軍は途中で石田三成の旗揚げを知って急遽引き返した。そして同年九月十五日、西軍・石田三成と東軍・徳川家康が関ヶ原にて戦うこととなったのである(関ヶ原の戦い)。このとき上杉軍は徳川軍が引き上げた後に、最上義光を討つべく山形攻が始まった。

 戦半ばにして関が原の敗戦により、撤退を余儀なくされた上杉軍は、最上勢の追撃を受けた。このとき直江兼続と共に殿軍を引き受けたのが前田慶次郎であった。殿軍とは撤退の際に敵の追撃を受け持つ部隊のことであり、通常は壊滅に近い被害を被る。しかしこの兼続の撤退戦は旧日本軍参謀本部の「日本戦史」で取り上げられるほど見事なものであり、そしてこの撤退戦の慶次郎の働きは目を見張るものがあった。兼続は鉄砲八百挺をもって首尾よく最上勢を迎撃するものの、最上勢はなおも襲いかかる。慶次郎は水野・藤田・韮塚・宇佐美ら朱柄の槍を持った五名と兵三百をもって、群がり来たる最上勢の中に縦横無尽に分け入って戦っては退き、戦っては退く、という見事な戦いぶりであったと言われている。幾度かの戦闘の末、ついには最上勢の追撃を断念させるに至ったのである。
◆前田慶次道中日記

 関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は徳川家康に対して降伏する。そして上杉家は会津百二十万石の大封から直江公の旧領たる伊達・信夫・米沢の三十万石の大名に偏せられた。この時、慶次郎はなぜか京にいる。慶次郎は景勝弁明のため働いていたとの説(現在我々の元にこの史料は無い)もある。

 百二十万石から三十万石に減封された上杉家は、多くの将兵を養うことも出来なくなり、上杉家から立ち去る者も少なくなかった。このとき慶次郎は諸侯より高禄で召し抱えたいとの招聘が数多くあった。しかし慶次郎は諸家に対して「望なし」と言い、上杉家に五百石(諸説あり)という小禄で仕えた。

 慶次郎は上杉景勝・直江兼続を追い米沢へ移り住むこととなる。このとき京都伏見を出でて慶長六年(1601年)十月二十四日から翌十一月十九日に米沢に着くまでの二十六日間の道程を日ごと、一里単位で書いた日記が「前田慶次道中日記」である。道中日記は現在、市立米沢図書館に保管されている。
◆米沢にて

 その後、堂森山北東のほとりに庵(無苦庵)を結んで、風花吟月を友として悠々自適の生涯を終わったと言われている。無苦庵で記述されたのが「無苦庵記」で「生きるだけ生きたら死ぬるまでもあろうかと思ふ」という言葉で結ばれている。

 慶次郎の没年月日には諸説ある。多くの史料では慶長十七年(1612年)六月四日に亡くなったとし、その亡骸は堂森善光寺に葬られたとされている。前述したが、「加賀藩史料」では前田利長によって大和刈布に蟄居させられ、慶長十年(1605年)十一月九日に七十三歳で没したと記されている。なお現在では「刈布」という地名は奈良県には存在していなく、旧地名を探しても現段階では見つけることは出来なかった。
◆慶次郎の遺品

 山形県米沢市では慶次郎の遺品が幾つか残っている。現在こそ湧水はでていないが、生活用水として利用されてきた慶次清水。宮坂考古館に今でも残る慶次郎が着用していたとされる甲冑。高畠町の亀岡文殊堂の「亀岡文殊奉納詩歌百首」には慶次郎が詠んだ和歌五首がある。その他にも「お面」や「槍」なども残されている。"
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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:07:51 | 顯示全部樓層
" 前田慶次は安土桃山時代~江戸時代初期を生きた人物である。生没年は不詳で、また出自も滝川一益の子であるとする説、あるいは滝川益氏の子であるとする説など諸説あり、さらに彼の事績を記す史料も少ないため、その生涯には謎の部分が多い。だが、数少ない文献からは、綺羅星のごとく武将が世に出た戦国時代にあってひときわ異彩を放つ人物像が浮かんでくるのだ。

    「ひやうげ人にて何事も人に替り、出家のようなるきやうがいなり」(『桑華字苑』)
    「若年より人にかはりて異風なる人也」(『三壷記』)
    「天性徒(いたずら)ものにて一代の咄色々あり」(『可観小説』)

 これだけを読めば、一風変わった奇人といったイメージが連想されるが、一方で次のような記録もある。

    「心たくましく猛将たり」(『考據摘録』)
    「武辺人の知たる勇士也」(『雑記』)
    「武功度々不及申、学問歌道乱舞に長じ、源氏物語の講釈伊勢物語の秘伝をうけて、文武の士と云」(『可観小説』)
    「性豪爽にして驍勇なり。又恢諧にして能詩を賦し、並に連歌に工なり」(『本藩暦譜』)

 また、慶次の詠んだ俳句・和歌として、次のような作品が残されている。

    こほらぬは神やわたりしすはの海
    (『前田慶次道中日記』。米沢への旅の途中、下諏訪を訪れた時の句)

    雪霜にめぐりは流るあしの哉
    (『前田慶次道中日記』。米沢への旅の途中、芦野を訪れた時の句)

    吹く風に入江の小舟漕きえてかねの音のみ夕波の上 
    (『亀岡文殊奉納詩歌百首』。慶長7(1602)年、大聖寺(亀岡文殊)で催された歌会で詠んだ歌)

    梅の花酒かなひとつ壷のうちに匂ふとみれば春の奇特に
    (『本朝 武芸百人一首 49』)

 つまり、慶次は名の知れた勇将であり、種々の学問・芸事に通じた第一級の教養人であり、奇妙な行ないを繰り返した「いたずらもの」であったのだ。ミスマッチとも言えるような彼の多面性には、何か引きつけられるものがある。

 慶次は前田利家の兄利久の養子に入った。利久は尾張荒子城主であり、順調に行けばゆくゆくは慶次もその跡を継いで城主になっていたはずである。だが、主君織田信長の命により荒子城は利家が継ぐことになり、利久・慶次らは城を追われることになった。なぜそういうことになったのか、正確なことは分からないが、利家が(一度クビになった経歴があるにしろ)信長のお気に入りだったこと、利久の器量について評判があまりよくなかったことが影響しているのだろうか。
 14年の放浪の末彼らは当時金沢にいた利家に仕え、慶次は利久からその禄高7000石のうち5000石を与えられて越中阿尾城を預かったが、利久の死後、天正の末年(1591)頃には禄高も家族も、そして前田家一族衆の身分をも捨てて出奔し京に上った。このとき慶次は、利家を茶湯に招いてその際彼を水風呂に入らせ(するとこれは冬頃のことだったのだろう)、彼が悲鳴を上げている隙にまんまと飛び出していった、という逸話が伝えられている。
 上洛後の慶次の足取りははっきりしないところもあるが、この時に上のような様々な教養を磨いていったものと考えられる。
 また、「重輯雑談」には、慶次が天下人・豊臣秀吉から「傾奇御免」を受けた、という記録がある。利家の甥に傾奇者がいるという評判を聞いた秀吉に召し出された慶次が、珍妙な恰好で罷り出て秀吉をはじめ諸侯をひとしきり笑わせた。その後、褒美として馬を拝領する段になって一時退出し、今度はきちんと髪や衣服を改め、作法を守った振る舞いで参上したため、

    「太閤の御意に叶ひ、向後何方にて成ども、心儘に衡(かぶ)き候へと御免の御意」(『重輯雑談』)

 を得た、というものである。上記のとおり、この記録では秀吉の官職が「太閤」と記されているが、秀吉が太閤となったのは1591年であることから、この出来事もこの頃にあったものと思われる。
 そして、上杉景勝の名参謀・直江兼続と知り合い、親交を深めたのもこの頃とされている。この縁によってか、やがて慶長3(1598)年、慶次は上杉家へ仕官することとなる。

 慶長5(1600)年、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こり、慶次ら上杉勢は徳川方の最上義光軍と戦うことになるのだが、会津若松城を発つときの慶次の出で立ちについて記録が残っている。

    「黒具足に猿皮の投頭巾を被り、猩々皮の広袖の羽織に背に金の曳き、両筋の刺高珠子を襟に懸け、珠子のとめには金の瓢単を後へ下げたりける」(『上杉将士書上』)

    「黒糸縅の鎧に、猩々緋の羽織、金のいらたかの珠数に金の瓢を付けたるを襟にかけ、鉄澁の山伏頭巾の冑、十文字の鎗を提げ、黒の馬の野髪なるに金の山伏頭巾をかぶらせ、唐鞦かけて乗りたりけり」(『可観小説』)

 まさに傾奇者・慶次の面目躍如と言うべきであり、きらびやかな勇姿が目に浮かぶようである。
 そしてこの時、慶次は「大ふへんもの」と大書した旗指物を背負っていたと言われる。これを「大武辺者」(武勇絶倫の者の意)と読んで

    「上杉は武勇の家なるに、新参の身にて斯く押出したる書付は法外なり」(『翁草』)

 と文句をつけてきた腕自慢に対しては、からからと笑って、

    「扨(さて)も扨も各は田舎人哉、仮名の清濁(すみにごり)を弁(わきま)え給はぬおかしさよ、我等浪人にて貧く暮せば、大不弁者と云事なり」(『翁草』)

 とやり返したと言う。「大不弁者」とは「大不便者」、すなわち大変な貧乏人の意味である。慶次一流の諧謔と言うべきだろう。
 また、いくさ場における慶次の肝の太さを示すエピソードとして、次のようなものがある。松川合戦のとき、重傷を負った兵士がいたが、彼に薬を飲ませようにも水がない。代わりに小便を使おうということになったのだが、こんな修羅場で小便を出せる者などなかなか見つからない。そこで慶次の登場である。

    「前田慶次がいはく、かヽる稠敷戦場にて、人の心逆上して小便通じ難きもの也。然共某に於ては尋常の者に替るべしとて、草摺を引きたぐり、立ながら小便をする。則是を呑汁にして薬を與へけると也」(『雑記』)

 9月29日、西軍敗北の知らせが会津若松に届き、上杉景勝は軍勢に退却を命じるのだが、殿軍を務めた兼続たちは激闘を強いられることになる。朝の卯の刻(午前6時)から申の刻(午後4時)までの10時間に、わずか1里半(6キロ)退くうちに28回の戦闘が行なわれたという記録(『北越耆談』)から、その過酷さが相当なものだったことが推測される。この戦いで兼続は自決を覚悟したという。が、それを思いとどまらせたのが慶次であった。

    「言語道断。左程の心弱くて、大将のなす事とてなし。心せはしき人かな。少し待、我手に御任せ候へ」(『上杉将士書上』)

 こう言い置くと、最上軍に果敢に突撃し、敵の追撃の手を緩めて、上杉軍撤退を成功させる足がかりを作ったのである。このことについて、次のような記述がある。

    「敵兵ヒシト喰ヒトメテ討チ掛カルヲ 前田慶次利貞鎗ヲ取リテ敵兵ヲ突崩ス 水原常陸介モ取合セ 手勢二十余騎駈出テ防戰ス 其ノ間ニ味方ノ兵士長井境マテ引退ク (直江)山城守ハ高峯ノ尾崎ニ備ヲ設ケ 追来ル敵ヲ見下シ矢炮ヲ放ツ 山形勢シトロニ乱レ騒動スレハ 味方ノ軍士ハ切テ掛ル 山形勢二十余丁敗走ス 爰(ここ)ニシテ討トル首百余級 手負ノ者モ若干(そこば)クナリ」(『上杉家家譜』)

 このときの戦いの記録は上記のような上杉方の書物だけでなく、敵方の最上家の文書にも次のように記されている。

    「ここかしこの難処へ追ひ詰め追ひ詰め討ち捕りければ、一人も助かるべしとは見えざりけり。然れども直江は近習三百騎ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、取つて返し、追ひ乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い捨て引き返しければ、直江も虎口を逃れ、敗軍を集めて、心静かに帰陣しけり」(『最上義光記』)

 歴史が勝者によって恣意的に作られ、事実が闇に葬られるということは往々にしてあるが、このように敵方も文書に残さざるを得ないようなすさまじい働きぶりを慶次たちは示した、ということだろうか。
 関ヶ原の後、上杉家は120万石から30万石へと減封となり、それに伴って諸将の禄も削られることになったのだが、慶次は武功に到底見合わないと思われる微禄で上杉家にとどまった。これを聞きつけた諸大名は競うように彼を家臣に加えようとしているが(中には7000~1万石の禄高を提示した者もいたという。そして、慶次の武功はそれほど見事なものだったのだろう)、慶次は次のように言ってすべての誘いを断った。

    「天下に我主は景勝より外になし、其子細は石田治部、一味の大小名、関原口上方負に成と否、人質を渡し、便を求め、降参して立つ足もなく、浅間敷次第なり、其類を主に取事、堅くいやなり、又家康公御譜代衆は、近頃迄又者なり、夫を主には猶いやなり、越前黄門様か、尾張の下野様か、籾は景勝より外になし、関原にて味方敗亡しけれ共、少も弱気を見せず、一言の降参を不乞、翌年四月迄ひたと合戦せられしを見れば、大剛一の大将は景勝なり。主には上有べからず」(『翁草』)

 こうして、慶次は京の住まいを引き払って出羽米沢へ移り、慶長17(1612)年頃隠居先の堂森で没したと伝えられるが、前田利長によって大和刈布に蟄居させられた後慶長10(1605)年に病没したとの説もあり、この辺ははっきりしない。しかし個人的には、慶次の性格からすると、後者の説の言うようにおとなしく蟄居して過ごしたとはなかなか考えにくいのだが、どうだろうか。

 以上が、調べて知った限りの慶次のおおよその経歴である。いかにも現代人的な視点であるといえるが、自分としては家族を捨てたと言う一点が(きちんと誰かに世話を託したにせよ)ちょっとどうか…と思ってしまう。しかし、一個の男としての彼を見てみると、これほど魅力にあふれた人物はそうはいないのではないか。教養・武芸の両方に秀でながら、それをあえて立身出世の武器とはせず、あくまで自分の信念・美学を貫いて戦国の世を渡っていったのだから。しかも気難しい隠者というわけではなく、いたずら心(過激な茶目っ気と言ってもいいかもしれないが)旺盛だったという一面が実にいい味を出しているのだ。もちろん、秀吉のように己の才能を最大限に生かしてハングリー精神で上までのぼりつめていった武将も嫌いと言うわけではないが、上のような生き方をした慶次には、自分としては非常に惹かれるのである。そして、「徒者・傾奇者」とは社会秩序・体制に逆らう者の事を指すそうであるが、そんなことは人並みはずれたエネルギー・精神力・能力がなければまずできるものではない(ただし、明確な信念も持たずにただ何とはなしに世の中に反発するような人々は論外である)。個人的武勇に優れていたことは史料から読み取れる(記述のある史料の正確性自体を疑う考え方もあろうが、それだけの記録が仮に誇張にしても残るということは、やはり慶次が名の知れた武芸者であることを示していると思う)が、一軍を率いる将としての統率力を疑問視する考えが多く、確かに今回調べた限りではその点は払拭できない。しかし慶次は、それを差し引いてもなお一代の名将と呼びうる人物ではないかと思うのだ。『日本歴史大辞典』(河出書房、昭和50年)で、慶次に関する文を書かれた伊東多三郎氏は、「(慶次は)世をすねて一生を終った」と記されているが、僕は、あくまで慶次は「すね」たのではなく自由気ままに、自分の信念に沿って生きていったと考えたい。

 なお、慶次の子は正虎(通称安太夫)と称し、彼に関しては、

    「采地二千石を賜ふ。光悦の風を学で書を能す」(『本藩歴譜』)

 という記録がある。正虎は『前田家之記』(一名『前田安太夫日記』)を著し、藩の故事を伝えたという。
 また慶次自身も、1601年の10月24日から11月19日の間、京から景勝居城の出羽米沢に向かう途中で冒頭にも書いた『前田慶次道中日記』を著している。俳句、和歌を詠み、あるいは古典を引用しながら旅の風景を書きとめており、慶次の教養の高さを窺い知ることのできる作品となっているが、単なるインテリチックなものではなく、しっかりとユーモアも忘れていないところがまた慶次らしい。

《参考文献》
◆一夢庵風流記(隆慶一郎、集英社文庫)
◆日本歴史大辞典8(河出書房)
◆国史大辞典(吉川弘文館)
◆信長の野望覇王伝武将ファイル・信長の野望天翔記武将ファイル・信長の野望将星録武将ファイル・信長の野望烈風伝武将ファイル(以上シブサワ・コウ編、光栄)
◆戦国人物ガイド(後藤敦・松井吉昭・會田康範、新紀元社)
◆戦国武将ものしり事典(奈良本辰也監修、主婦と生活社)
◆前田慶次道中日記(米沢市立図書館)
◆上杉家家譜
◆日本随筆大成 翁草
◆米沢市史
◆加賀藩史料第1編(侯爵前田家編輯部)
 なお、上記の史料はすべてこれらの文献からの抜粋によります。
 そして、「梅の花…」の歌についてモッちゃんさんから情報をいただきました。ありがとうございます!(ちなみに『剣道日本』に掲載されていた慶次についての記事から持ってきていただきました)

 …とまあ、格好つけてみたものの、ほとんど上の文献の記述の寄せ集めのようになってしまいました。でも、こういうタイプの文を書くのは専門ではないし、またその能力もないので、これで勘弁してください。(^^;
 あと、前田慶次について他にいい文献等があるのをご存知の方は、ぜひ教えて下さい。よろしくお願いします。"
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