犬知一派據點

 找回密碼
 立即註冊
搜索
熱搜: 活動 交友 discuz
樓主: 〓犬〓

慶次相關逸話

[複製鏈接]

218

主題

485

帖子

1369

積分

管理員

Rank: 9Rank: 9Rank: 9

積分
1369
 樓主| 發表於 2015-8-23 16:20:33 | 顯示全部樓層
"我は小禄なり

 ある日のこと、家中一統の馬揃えがあった。いずれも美しく着飾り、日頃愛用の馬にも立派な装具を付け、どの者もこれ見よがしと競って参加したという。慶次郎はこのとき、黒染めの粗服をまとい、一頭の牛に跨って悠々と出場した。これを見た人々は呆れ返って
「馬揃えに牛に乗ってやって来るとは人を馬鹿にするにも程がある」
 とののしった。すると慶次郎は口を開き
「我れは小禄の分際であり、馬を飼う余裕がない。よって牛を飼育しているのであるが、物の用にさえ立てば、馬でも牛でも同じであろう。それをお見せしよう」
 といい、牛に一鞭を加えると場内を縦横無尽に疾駆してその速いこと馬に劣らず、人々はさすが前田慶次郎であると舌を捲いて驚いたという。"
回復 支持 反對

使用道具 舉報

218

主題

485

帖子

1369

積分

管理員

Rank: 9Rank: 9Rank: 9

積分
1369
 樓主| 發表於 2015-8-23 16:20:38 | 顯示全部樓層
"林泉寺の和尚をブン殴る

 林泉寺は元々、越後春日山に在った寺で上杉家が会津に移封後この地に移され、後に米沢へ移された。非常に格式が高く、米沢の寺院の総支配を為す寺であったため、景勝公の帰依厚く、住僧もそれをかさに常日頃から尊大でおり、接する者いずれも小憎らしく思った。

 それを伝え聞いた慶次郎はいつものいたずら心を出して、身を巡礼の姿に変えて早速林泉寺を訪ねた。境内をうろうろし、当の和尚を良い風情であると褒め称えた。ここで一句と、和尚に筆と紙を借り、見事な漢詩をしたためた。これを見た和尚は大いに驚き、庫裡(くり)の間へと招き入れ、茶をたてた。

 いろいろな話をし、ふと慶次郎は座敷の隅に置いてあった碁盤に眼をやり、これまた褒めちぎった。和尚は気をよくし、一局御指導願う慶次郎の申し出を快く受けた。勝った方が負けた方の頭をそっと一つ叩くという賭けをし、対局が始まった。

 初めの一局は和尚の勝ちとなり、慶次郎は
「それでは私の頭をお打ちください」
 と言う。和尚は断ったが、頑として聞かぬ慶次郎に負け、それではと頭を軽く叩いた。今一度と云うので、改めて対局となった。すると先程と打って変わり、別人の如く今度は慶次郎の勝ちとなった。和尚は潔く頭を突き出し、
「さあ打って参れ」という。
「和尚の頭を打ったら仏罰が当たり申す」
 と言って慶次郎は打とうとしない。和尚が
「それでは困る。遠慮なく打ってくれ」
 というので、慶次郎はやにわに立ち上がり鉄拳を固めて真っ向から和尚の眉間に打ち下した。すると和尚はうーんと唸って気絶した。それ水を持って来い、薬じゃ、医者じゃと寺中大騒ぎとなった。このどさくさ紛れに慶次郎は姿をくらましてしまったという。"
回復 支持 反對

使用道具 舉報

218

主題

485

帖子

1369

積分

管理員

Rank: 9Rank: 9Rank: 9

積分
1369
 樓主| 發表於 2015-8-23 16:20:44 | 顯示全部樓層
"最上陣に勇名をあらわす

 時は慶長五年(1600年)九月八日のこと、米沢三十万石の城主直江兼続公は兵二万を率いて山形城主最上義光征伐の為米沢城を出発した。其の時に前田慶次は遊撃軍として直江公の手に属して出征した。

 最上義光と云う男は腹黒い男で表面は徳川家康に通じながら裏面では上杉軍の襲撃を怖れて書状を景勝公の下に送って他意なきを示した。太閤亡き後は五大老の一人徳川家康が権を振るい第二の天下をねらって、会津の上杉景勝に対してしきりに上洛を促したが公は頑として之を拒絶し、家康の軍が若しやって来たなら白川の南方革籠原へ四方より追いこんで徳川軍を皆殺しにしようと自ら数万の軍を率いて若松城を出て白川の西南長沼に陣し、直江公は兵三万を率いて野州塩原に陣した。然るに景勝征伐を名として大坂城を発した家康は江戸城へ立ち寄り小山へ進んで待機しており、先鋒秀忠は宇都宮まで進んで来たが、それ以上は一歩も出てこない、両軍只睨み合っているばかりである。ここが徳川家康の老獪極まる所で、正面から進んで来たなら勝ちは無論上杉方にあったであろう。当時上杉家には謙信公以来の譜代の勇士が五万あり外に諸国から集った浪人三、四万もあったと云われる、しかも決死の上杉軍に向かっては到底勝算がなかった。上杉氏の背後には仙台の伊達政宗があり、山形の最上、越後の堀氏があったが、上杉方ではかねて常陸の佐竹と協力して家康の軍を挟撃せんとする計画があり、形勢予断を許さないものがあった。

 然るに八月四日に至り家康は急遽小山の陣を抜いて江戸城へ引き上げ、ついで軍を率いて上方へと向かった。当時上方において石田三成が家康討伐を名として徒党を糾合し挙兵の準備をさをさ怠りないとの警報がしきりに到ったからであった。このときに直江公は景勝公に対して徳川追撃を進言したが、景勝公はこれを聴きいれず、長蛇空しく逸した観がある。関ヶ原の大合戦は九月十五日であり、石田方の大敗軍となり、天下の大権は自ら徳川に帰してしまったが其の関ヶ原戦の直前、最上征伐の軍が起こったのである。直江公は徳川追撃が許されず其の腹癒せに最上を征めてやろうとしたものである。直江公は軍を率いて荒砥の先、萩の中山口より進み山形の居城である畑谷城(現東村山郡作谷沢村)を包み四方より取り囲み向の山上より鉄砲を撃ちかけたので同月十三日城が落ち城将江口光清は自刃した。

 一方掛入石中山口より進んだ別軍は直に上ノ山城に迫り、畑谷城を陥れた直江軍は直に長谷堂城を攻撃したが両城共頑強に抵抗して未だ陥落しないが最上村山地方に散らばっている白岩・谷地・寒河江・八沼・左沢・山辺・延沢・長崎・五百川などの諸城は悉く陥落して、残るは山形の本城と上ノ山・長谷堂の二城だけとなり、最上氏の運命風前の燈もただならぬ有様となった。然るに関ヶ原において石田軍大敗の報が若松の景勝公の下に入り、直に直江軍への通報となり即刻軍を引き揚げよとの命令に接した。それが九月二十九日の事であった、今日からみると随分のんびりした話であるが交通不便の当時まことに止むを得ないものがあったろう。これによって直江公は停戦の命令を発して十月、陣小屋を焼き払い敵の追撃を退けながら同月六日米沢へと引き揚げたのであった。この役において遊軍として出征した慶次郎の働きぶりは、一際目立って衆目を驚かすものがあった。殊に見事であったのは直江軍引き揚げに際して常に殿を務め、槍を揮って遊撃軍を退けたのは見事なものであり、永く人口に膾炙(かいしゃ)された。彼が着用の甲冑は朱塗りで一種独特の型を持った珍しいものであり、後上杉家の有に帰し上杉神社の所蔵品となった。"
回復 支持 反對

使用道具 舉報

218

主題

485

帖子

1369

積分

管理員

Rank: 9Rank: 9Rank: 9

積分
1369
 樓主| 發表於 2015-8-23 16:20:53 | 顯示全部樓層
"槍をかかえて自陣に帰る

 伊達政宗が上杉の会津~米沢間のルートを遮断するため、信夫、伊達両郡(福島県)に出陣した戦いにおいて、慶次郎はその名を両軍に知らせる機会を得た。いわゆる「一番槍」を試みたのである。この銃撃戦にそぐわない感じを受けるが、源平の合戦以来、一騎打ちに生命をかける武風は、未だ残っていたのである。

 まず、作法に従って慶次郎が名乗りをあげて、政宗軍に槍による一騎打ちの相手を求めた。それに応える者がいないということは、政宗軍の恥である。政宗も武勇の者を選んで相手を差し向けた。二人を除き、両軍の将兵は、しいんとなりをひそめ、観戦者と変わった。

 しかし考えてみれば、戦う二人にとっては容易ならぬことであった。負ければ死だ。不幸にして強い相手にあたれば、弱い者は負ける。この強弱は、必ずしも武術や体力のものだけではなかった。それは精神力の強弱に支配される度合いが大きかった。数回場数をふんだ者でなければ、気持ちが落ちつかず、相手の動きを正視できなかったと言われている。

 その相手こそ、災難だった。政宗の指名を受けると、彼は誇らしさとことの重大さを意識した。腕には自身があったが、肝心の慶次郎を目の前にすると、慶次郎の姿がぼやけてかすんで見えた。これはまずいと思っているところを、慶次郎の槍で頭をうたれた。彼は不覚にもその場に気を失って倒れた。こんな莫迦なことあってたまるかと思いながら――。

 そこで両軍の間に緊張感が流れた。あとは慶次郎が、その者の首級をあげる順序である。しかし慶次郎はその代わりに、彼にいばりをかけ、それが済むと彼の槍を小脇にかかえて自陣に帰った。両軍から期せずして笑いが起こった。その笑いは慶次郎の寛容さに対する、称賛の笑いであった。"
回復 支持 反對

使用道具 舉報

218

主題

485

帖子

1369

積分

管理員

Rank: 9Rank: 9Rank: 9

積分
1369
 樓主| 發表於 2015-8-23 16:20:59 | 顯示全部樓層
"郊外堂森に閑居

 関ヶ原戦後は天下の大権は全く徳川家康に帰し、反徳川の諸大名は直接関ヶ原戦に関係あると否とに拘らず、或いは潰され或いは削封の憂き目に遇った。上杉家は会津百二十万石の大封から直江公の旧領たる伊達・信夫・米沢の三十万石の大名に偏せられた。上杉家の家臣のうちには勝敗を度外視する主戦論者も少なくなかったが景勝公は之をおさえ遂に家康と和議を結ぶこととなったのであった。

 時に慶次郎は景勝に従って米沢へ移り禄僅かに三百石を受け、郊外堂森(米沢市万世字堂森)の地に隠居し悠々琴書を友とし、風月を楽しんで余生を送った。上杉氏削封後は帰属していた浪人共多くは暇を乞うて四散したが、慶次郎のみは高禄にて召抱えんとするものがあっても悉く之を退けあくまで景勝と運命を共にして少しも悔ゆる所がなかった。彼はその居を「無苦庵」(ムクアン)と称し、自ら筆を執って記を作り之を壁にはりつけた。その無苦庵で記述されたのが「無苦庵記」であり、以下の言葉が記されている。
 抑も此の無苦庵は孝を謹むべき親もなければ憐むべき子も無し、心は墨に染ねども、髪結がむツかしさに頭(ツムリ)を剃り、足の駕籠かき小者雇はず七年の病なければ三年の灸(モグサ)も不用、雲無心にしてくきを出づるも亦可笑し、詩歌に心なければ月花も苦にならず、九品の蓮台に至らんと思ふ欲心なければ八万地獄に落る罪もなし、生きるだけ生きたらば死ぬるでもあらうかと思ふ。"
回復 支持 反對

使用道具 舉報

218

主題

485

帖子

1369

積分

管理員

Rank: 9Rank: 9Rank: 9

積分
1369
 樓主| 發表於 2015-8-23 16:21:04 | 顯示全部樓層
"兜をむくる

 慶次郎は毎日が退屈でたまらず、何がな例のいたずらがしてみたくてたまらず、思案をこらしているうちに忽ち一計を案じて、堂森善光寺の門前に次の通りの高札を立てた。

 来る何月何日何刻当寺境内において兜をむくってお目に懸け可申、
 縦覧勝手たるべき者也            前田慶次

 これが大変な評判になって、「兜をむくるとは大した事だ、どんな事をするのか見たいものである」と近郷近在から誘い合わせて善光寺境内へやって来る、たいそうな人出である。集まった多くの人々は今か今かと待っているが肝腎な慶次郎その人がなかなか姿を現さない、はてどうした事であろう、まさか吾々を馬鹿にしたわけでもあるまいに、と口々に罵りながら待つこと小半時(約1時間)漸くにして当の慶次郎が姿を現し、群集に向かって云う
「今日は拙者の芸当を皆様にお覧に入れる筈であったが、昨晩より引き続き腹痛みのため、とてもとてもこの珍芸をお目に懸けるわけには参らぬ、就いては来る何日には必ず間違いなくお目に懸けることに致そう」
 と云うなりさっさと引き取ってしまった。

 次の約束の日には前回にも増して善光寺境内は押すな押すなの人だかりである。そして寺の玄関前には立派な台を据え、その上に明珍(みょうちん)作の見事な兜がうやうやしく飾られている。こたびは約束の刻限に慶次郎はちゃんと姿を現し、さて云う
「只今からこの兜をむくって御目に懸ける。よく眼を見張って観ているように」
と如何にもうやうやしく述べた。

 群集はかたづを呑んで見ていると、慶次はづかづかと兜をのせてある台の前へ近づき、件の明珍の兜に手を懸けた。そしてくるりと向きをかえて後ろ向きにした
「さァ、これで兜むくりの芸が終わったのである」
 と云った。群集はあっけにとられて、ナーンだ人を馬鹿にするにも程がある、と今更怒るに怒られず、はては大笑いしながら慶次様にうまく一杯喰わされたと言いながら帰っていった。"
回復 支持 反對

使用道具 舉報

218

主題

485

帖子

1369

積分

管理員

Rank: 9Rank: 9Rank: 9

積分
1369
 樓主| 發表於 2015-8-23 16:21:08 | 顯示全部樓層
"朝から晩まで南無阿弥陀仏

 慶次郎が堂森で使っていた僕に吾助という若者がいた。この若者、従順であったがあまりに仏教に凝りすぎて、寝ても起きても「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える癖があった。慶次郎はこれがうるさくてたまらず、かといってガミガミと頭から叱りつけるのもおもしろみがない。

 そこで一計を案じ、格別用事がないのに朝から吾助、吾助と呼びつける。吾助は「ハイ、何御用でございますか」と返事をすると慶次郎は別に用はないと答える。そしてまた吾助、吾助と呼びつけるのだった。さすがに吾助もこれには全く困り果て、ある日改まって
「旦那様、私の名を御呼びになるのは結構ですが、格別用もないのに御呼び続けになるのには全く閉口致します。これからは御用もないのに名を御呼びになるのはやめていただくよう御願い申し上げます」と申し出た。

 すると慶次郎は
「そんなら拙者からも云うて聞かせることがある。お前が仏様を信心し、御念仏を唱えるのはよいが、寝ても覚めても屁をひっても御念仏を唱えてはさすがの阿弥陀様も返事がしきれないであろう。阿弥陀様に御迷惑を御かけしてもよいのか、どうじゃ吾助、この道理わかったか」
 と丁寧に諭したので、
「ハイ、分かりましてございます、以後気をつけますからこれまでの事はどうぞ御許しください」
 と答えて、それからはぴたりと念仏を唱えなくなった。"
回復 支持 反對

使用道具 舉報

218

主題

485

帖子

1369

積分

管理員

Rank: 9Rank: 9Rank: 9

積分
1369
 樓主| 發表於 2015-8-23 16:21:13 | 顯示全部樓層
"鼻毛をこらす

 其頃米沢城下の町に一人の無頼漢が時々現われて、つまらぬことに因縁をつけ喧嘩を売っては何幾の酒手をゆすり取るのを常習とした。其男容貌魁偉(かいい)で殊に鼻毛を長く延ばしているので、あだ名をハナゲと呼ばれていた。

 かねてこの事を耳にしていた慶次郎はある日のこと町中で偶然このハナゲに出遭った。そこで
「あーこれこれよい所で出遭った、かねがねうわさに聞いていたが、実はそちに頼みがあるので、聞いてくりやれ」
見れば立派な風采をした一人の武家が従僕を召し連れて、こう言葉を掛けるので、ハナゲは立ち止まって
「私奴に何か御用でございますか」と云うと。
「実はナ、そちの鼻毛が欲しいのだ。それには少し訳がある。人間のものでなければ役に立たない、そちの鼻毛は実に見事である、どうかそれを私に売ってくれぬか」
と慶次郎は言葉をかけるので例のハナゲは
「ハァ、何の御入用やら分かりかねますが、売ってくれと御仰るなら売って上げないものではございませぬ」と答えた。
「そうか承知してくれるか」
と傍らへ近寄り、つくづく其鼻毛を見ていたが
「実に見事な鼻毛であるが惜しいことに少し短い、もう少しの所じゃ、それでもう一月程経ったら丁度よく伸びるだろう、そうしたら金壱両で買ってとらす、今日のところは手附金として半金の二分(壱両の半分)を渡す」
と云って懐中から壱分銀二枚を出して渡し、一ヶ月程経ったら堂森の前田の家を訪ねて来いと云った。何しろ其頃の金壱両といえば相当の金高であり、米沢では両に米が十四、五俵も買えた頃の事であるから、ハナゲは大喜びで二分の金をおし戴き、必ずお尋ね申すと約束した。

 やがて一ヶ月も過ぎた頃ハナゲは堂森の慶次郎宅へいそいそとやって来た。慶次郎はこれを出迎えて
「ヲ、よくやって来た、どれ鼻毛を見せろ少しは伸びたか」
と云いながら鼻毛に見入っていたが
「ムウ、だいぶ伸びたようであるが、惜しい事にまだもう少し伸ばしたい、そこで今日は少し肥料をやる、そうするとズンズン伸びるから暫時辛抱せよ」
と云って庭に莚(むしろ)を敷き、ハナゲを仰向けに寝かせ家来二、三人に命じて其手足をしっかりと抑え付け、他の家僕に命じて
「例の薬を持って来てかけてやれ」
と言った。家来共はその通りにした、ハナゲは何をされるやら理由が分からないが金が貰えるのだから暫時辛抱しようとされるままになっていた。

 何をするかと思いきや薬を持って参れと命じられた一人の下僕は裏の大便所から大きな柄杓に黄金水を波々とたたえて持ってきた。そして仰臥しているハナゲの顔に真っ向からジャアジャアと注ぎかけた。
「少し臭いが肥料だから辛抱せよ」
と云いながら後から後から何杯も肥料を注ぎかけるのである。さすがのハナゲも全く参ってしまった。武士に対してへたな抵抗などしようものならそれこそ一刀両断にされる怖れも多分にある、はてはハナゲも泣き音を立て「助けて!」「助けて!」と叫ぶばかりであった。それを見た慶次郎は従僕に命じ肥料もだいぶ効いたようであるから手を放してやれと命じたので漸くに手を放してやった、顔から着物から黄金水でグショ濡れになった。ハナゲはよろよろと立ち上った。

 そこで慶次郎はハナゲにむかって改まって云う
「これハナゲとやらよく聞くがよい、貴様はかねて僅か許りの力を自慢にして町へ出てよく町人や百姓をいじめて彼等を困らせておるゆえ、今日はその懲らしめに少しばかり薬をやったまでである。これから以後はふっつり心を入れ替えて非行を改めるかどうかじゃ、今後万一これまでのような悪い事をしたなら、それこそ一刀両断、そちの首を胴にはつけておかぬぞ、どうじゃ、今日限り改心するか」
ハナゲは只もの恐れ入って
「悪うございましたどうぞ御勘弁下さい、今後は決して悪い事は致しませぬ」と誓った。

 慶次郎は御苦労賃だと云ってポンと二分銀を投げ出して与えた。ハナゲは金を押しいただき何べんも頭を下げて引き取った。ゴロツキを戒めるにも約束の金はちゃんと与えてやった所は如何にも慶次郎らしい。"
回復 支持 反對

使用道具 舉報

218

主題

485

帖子

1369

積分

管理員

Rank: 9Rank: 9Rank: 9

積分
1369
 樓主| 發表於 2015-8-23 16:21:19 | 顯示全部樓層
"床柱を斧でひと打ち

 堂森村の旧家で太郎兵衛と称する肝煎(きもいり;村長のこと)がいた。この太郎兵衛なるものが、身代も年毎に太ったので或る年古い家を新しく建て替えて見違えるばかり立派になったのでかねて懇意な人等や親戚などを招待して新宅祝をやった。

 このときに慶次郎は一番の上客として招かれて宴席に列なった。主人太郎兵衛の挨拶があり、これから盛宴に移ろうとした時に、つと座を立ち上がった慶次郎は改まって述べるよう
「此家の新宅祝を開くに当たって御家繁昌、無病息災のまじないをしてつかわす」
そして勝手から一丁の斧を持ってくるように命じた。

 何をやり出すのか分からないが兎に角命じられるままに斧を差し出した。すると慶次郎はずかずかと上段の床柱の前に進み出て、エーッと一声高く叫ぶと見る間もなく件の斧を振り上げてその床柱の真中にハッシとばかり伐りつけた。一座は只々あっけにとられて見ているばかり、新築したばかりの床柱に大きな傷跡をつけるとはいかな狂人でもめったにやる事でない。中にもこの家の主人太郎兵衛は烈火の如く顔を真っ赤にして怒り出した。

 暫くじっとして一座の様子を眺めていた慶次郎はおもむろに口を開いて云うよう
「さて主人太郎兵衛よ、又一座の人たちもよく心を静めてわしの云うことを聞くがよい、すべて世の中のことは満つれば欠けると云う事が間違いのない法則である。この家の主人も近頃大分貯め込んで家を新築したことはまことに目出度い事に相違ないが、扨て人間と云う者はその処が肝腎、何より大切のところである。これで沢山だと安心した時は既に頂点でそれから後は運が傾く一方思いもかけない災難が後から後から降りかかって来る、そしてアッとい間に身代がつぶれ一家滅亡となるのだ。太郎兵衛よ能くここの道理を考えよ、決して有頂天になるな、いまこの傷ついた床柱を朝晩眺めてわしの言葉を思い出すがよい、それこそ無病息災お家繁昌の基いである」
と懇々と説いたので主人太郎兵衛も成る程もっとも至極の御言葉と肝に銘じて忘れなかった。太郎兵衛の家は其の後永く続いたと云われる。慶次郎のいたずらにはそこに何か意味が含まれている。"
回復 支持 反對

使用道具 舉報

218

主題

485

帖子

1369

積分

管理員

Rank: 9Rank: 9Rank: 9

積分
1369
 樓主| 發表於 2015-8-23 16:21:25 | 顯示全部樓層
"安田上総介を招待

 景勝公に仕えた勇将猛卒数ある中に安田上総介能元の名が殊更に顕れている、彼は上杉家譜代の臣で若い時分景勝公に従って新発田城主、新発田尾張守重家を攻めたときに新発田の反撃に遭ってこの時に能元は殿(しんがり)をつとめて奮戦し、敵兵の包囲に陥り槍を以って太股を刺されそれ以来足が不自由になった。それでびっこ上総の名は高くなった。

 会津百二十万石時代には会津三奉行の一人に挙げられ、政治上にも相当の手腕を発揮している。関ヶ原戦後は勝敗を度外において老獪家康と一戦交えようとする主戦論者の一人であり、景勝公に抑えられて漸く断念したほどである。晩年大阪陣の時も従軍して目立った働きを為した。一面彼は文学の嗜み(たしなみ)もあり、前田慶次郎とは殊更に深交を重ねた。安田家は後、先祖の姓である毛利を名乗るようになったが、上杉家が十五万石に削封された後も二千石を領し禄高においては上杉家一の高禄であった。

 ある年の春の晩れ、堂森の慶次は能元を招待した。四方を取り囲む高山の雪も次第に消え尽くし、近山にはもう雪のかけらも見られず吾妻や飯豊の遠山にはまだまだ白いものがまだらに残ってはいるが、里はもう青草がぽつぽつ生え出し、木の芽も早いものは淡禄色に萌え始め、微風がそよそよと吹き渡ると如何にも春らしい気分となる。旧暦十一月からもう雪の中に閉じ込められ、春になっても三月一杯は残雪に悩まされる米沢でもこの頃になると如何にも春らしい気分である。冬と春との堺がはっきりと顕れる節である
「山桜が盛りと咲き乱れてをる、此の好時節に何はなくも一献汲み交したい、どうぞ御出でを待つ」
との招待の書状を手にした能元は大いに喜んで僅かの近臣を供に馬上で慶次郎の家を訪れた。

 その家に着いてみると悉く戸締りがしてあり、戸を叩いても返事をする者もいない、さては慶次郎奴に一杯食わされたかと憤慨しかけた折、頭の上から安田殿、安田殿と呼ぶ声がする、何者ならんと首をもたげて見るとこわいかに庭の柿の大木の上に枝につかまっているのが他ならぬ慶次郎その人であった。
「前田ーッ、そんな所で何をしておるのだ早く降りて来い」
と大声に怒鳴った。慶次郎はするすると木から下りて能元の前に立ち一礼してから
「今日は折角お招き申し上げたのに格別の御馳走もござらぬそれで雁(カリ)の吸い物でも造ろうかと考え先程から木に登って雁の飛んで来るのを待っていた次第でござるが、あいにく今日は一羽の雁も飛んで来ない、まことに申し訳がござらぬ」
などと白々しく云うのであった。其の頃米沢地方には鶴もいれば雁なども飛んできたのであえて珍しくはないが雁の吸い物は珍味に相違ない、無論春の事であるから帰雁である。彼此してをる内に向こう山の麓に幔幕をめぐらし、其の中から笛や太鼓などの囃し声がやかましく聞こえてきたので、能元は何事ならんと耳をそば立てていると、慶次郎は彼の手をとり「安田殿お待たせ申した、いざ、こうござれ」とばかり、かの幔幕の中へ案内した。

 導かれて能元が中へ入って見るとそこは如何に数十枚の莚を敷き詰め、其の上に一面に緋の毛氈(もうせん)を布べて珍味佳肴を山の如く並べ酒は泉の如しという有様、先程の囃しの音は慶次郎が雇って来た芸人共であった。そこで能元は初めてわけが分かり、さすがは慶次郎だけのことはあると改めて喜ぶやら褒めるやら、お互いに心置きない間柄、終日御供や芸人共も交えて呑めや唄えや、どんちゃん騒ぎの無礼講、日暮れ頃能元は帰路についたのであった。常日頃には至って質素な暮らしをしている慶次郎ではあるが、こんな時には銭をケチまずに散財したものとみえる。"
回復 支持 反對

使用道具 舉報

您需要登錄後才可以回帖 登錄 | 立即註冊

本版積分規則

小黑屋|手機版|Archiver|Cyesuta

GMT+8, 2025-9-14 18:33 , Processed in 0.016946 second(s), 17 queries .

Powered by Discuz! X3.4

Copyright © 2001-2020, Tencent Cloud.

快速回復 返回頂部 返回列表