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 樓主| 發表於 2015-8-23 16:08:00 | 顯示全部樓層
"前田慶次郎は、武士道(いくさ人)の権化である。受肉化である。

古き良き戦国武士道とは、実のところとてつもないえげつなものである。

下克上と言うではないか。主家滅亡と相成れば、主君の首級を手土産に寝返ってなんら恥じるところはない。

上杉謙信を見よ。聖将・義将と称された彼にとって最大の敵は、言うことを聞かない国人衆だった。その為に謙信公は出家までしたのだ。

戦場において絶大なカリスマを誇った上杉謙信をしてこの有様。他は黙して知るべし。

現代に伝えられる武士道のかけらもない。忠義などはどこ吹く風よ、といった具合。

この戦国武士道というエトスを急変させたのが、尾張の大うつけ・織田信長。

それまでは手柄というものは自分で稼がなければならない。これ、世界中の戦場で言える常識。外国のある部族は、戦場で掠奪しないことは戦士の恥である、とまで断じている。

ところが信長は『協働行為』に重きを置いた。作戦の成功こそ手柄。個々人が首級を挙げることに勤しむのではなく、歯車と化して部隊全体の目的達成に全力を尽くす。それ故に、首級を挙げずとも信長は恩賞を与えた。

かの桶狭間合戦において一番の手柄とされたのは、今川義元の軍勢が桶狭間山の頂上付近に陣取ったことを知らせた梁田という男。

次点が今川義元に一番槍を突けた者と、討ち取った者だ。

目先の利益を追わない織田軍。この感覚が、無限の忠誠心・忠義の心を規範とした新しい武士道の始まりとなった。

前置きが長くなったが、天下一の傾奇者と謳われた前田慶次郎はこのような時代を生きた。

前田慶次郎は変わり者揃いの織田家で、いくさ人として成長していった。

そもそもこの前田慶次郎、前田家の血を引いているわけではない。

彼の実父は、織田軍の中でもいくさ上手で鳴った滝川一益の弟・益氏。滝川一益は甲賀忍者の出であると言われている。

慶次郎の母は、後に前田利久の元に嫁いだ。利久は血のつながらない慶次郎に家督を継がせる気でいた。ところがここで主君・信長、家督は利久の弟・利家に継がせよ、と鶴の一声。急転直下、慶次郎は無念の人となった。

このことは慶次郎の精神形成に多大な影響を与えただろう。傾奇者・前田慶次郎誕生の瞬間といえる。

余談ではあるが、信長もまた傾奇者と言われた。奥州の伊達政宗もまた、同様の伊達者と言われた。慶次郎も含めてこの三者に共通すること、それは父親に溺愛されていたと言うこと。慶次郎の方は資料が少なく推察の域を出ないのだが、非常に興味深い。

利久の妻・慶次郎の母は家督を継いだ利家に対し呪詛をかける。その為、慶次郎一家は利家の元に居づらくなった。ここから前田慶次郎の消息はプツリと消える。

前田慶次郎が歴史書に現れるようになるのは、本能寺の変の後になる。

この間慶次郎一家はどこで何をしていたのか。一夢庵風流記を著した隆慶一郎先生によれば、慶次郎の実父・益氏のところである。

織田軍の切り込み隊長・滝川軍の中でも最前線で戦う益氏。おそらくはこの中に前田慶次郎はいたのであろう。

慶次郎はこの最前線で、いくさ場で生き抜く術を磨きこんでいく。

また、文人と言われた利久の影響であろう。歌舞・音曲などの諸芸に精通していくのもこのころではあるまいか。

そして本能寺の変後、信長の後継者争いが起こり、一益は没落する。

その為、慶次郎一家は能登七尾城へ身を寄せることになる。これは、年老いた利久の願いだったのではあるまいか。七尾城代の安勝は、慶次郎の妻の実父であった。

この時利久は利家から七千石を与えられる。利家が数十万石、末森合戦後には100万石の大大名になったことを考えれば捨て扶持といえた。

利家のこの扱い、面白いわけはない。

慶次郎、悪戯の虫が騒いできた。

ここで有名な水風呂の件である。

茶を振る舞うと利家を自宅に招き、寒風を取り込んだ部屋で一服。人心地ついたところで、温かい風呂を勧めた。

慶次め、ずいぶんと気の利く奴よ、とザンブリ風呂に入れば、なんと水風呂。

おのれ慶次郎、と利家怒り心頭。ところが慶次は秀吉から拝領した悍馬・松風に跨り出奔してしまったのである。

利家も若き頃は傾奇者と言われた男。新旧対決は慶次に軍配が上がった。

慶次が出奔した時期についてだが、一夢庵風流記と異なり、小田原北条攻め以後のこと。慶次はこの時の大道寺勢との戦闘等で戦果著しく、秀吉とのお目見えとなる。

この時、時の天下人・秀吉より傾奇御免の御意を得る。名実ともに天下一の傾奇者となったわけだ。

浪人となった慶次郎、再仕官先として選んだのが、あの上杉家。

上杉家の重臣・直江兼続に惚れ込んでのことらしい。

直江の判断も絶妙。徳川家康による会津攻めに先立ち、広く戦闘要員を募集した。相手は海道一の弓取りといわれた徳川家康。上杉と言えど敗色濃厚。そんなところに仕官してくるわけだから、どれも一癖二癖ある強者揃い。これらの猛者のまとめ役に慶次郎を配した。

結局、家康は途中で引き返し上杉と戦うことはなかった。

上杉は最上・伊達と激戦を繰り広げる。

この時、前田慶次郎は比類無き働きをする。

関ヶ原合戦の敗戦処理で、上杉家の処分が米沢三十万石への転封と決まると、慶次郎もこれに付き従った。

これ重大。はじめに言ったが、このころの武士道、忠義なんて更々ない。

そもそも、浪人達は今度のいくさで永続的に上杉家に仕えるため仕官してきたわけではない。上杉でもそのつもりはない。パートタイム、アルバイトということだ。

結果、名をなした者達は戦後に高禄で他家へ召し抱えられていった。

さて、ここで問題。最も華々しい戦果を挙げた慶次郎。いくらで上杉家に留まったのか。

答えは二千石。五百石とも二百石とも言われている。

自分の価値観に愚直な慶次郎の行動。私はここに信長イズムを見いだす。

信長が作り出した無限の忠誠心という規範、他でそうそう見られるものではない。

目先の損得を超克した新・武士道。前田慶次郎は見事にそれを体現していた。

信長によって無念の人にされた慶次郎。ところが信長の真の後継者は慶次郎だったのではあるまいか。

この後慶次郎は米沢・万世町堂森に庵を囲って余生を過ごした。

そして1612年、波瀾万丈の人生に幕を下ろす。享年は70歳位と言われている。"
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