お知らせ:この記事に関する補足記事を書きました
「風の谷のナウシカ」は、多くの人が知っているアニメ映画ですが、この映画の原作となる漫画版の「風の谷のナウシカ」では、ラストが大きく違っているということは有名です。そして、この「マンガ版ナウシカ」は、思想史に残る重要な作品と言われる一方、根強い反対意見もあるようです。特に、ネット上で検索をすると、ほとんどの人がナウシカに批判的なコメントをしています。
自分は、最近、やっと「漫画版ナウシカ」を読むことができたのですが、ラストシーンでのナウシカの行動に共感すると同時に、「なぜ、ナウシカはあのような行動をとったのか」そして、「なぜ、ナウシカの行動が理解されないのか」ということについて、自分の学問的なバックグラウンドを踏まえて、きちんとまとめておかないといけないと強く思いました。特に、ネット上の意見が誤解に満ちたものであったため、そうした誤解を解く必要があると思ったからです。
最初に強く言っておきたいのですが、原作を読んでいない人は、この文章を読み進む前に、ぜひ原作を読んでいただきたいと思います(右のリンクからも簡単に買えます)。以下の文章は、「ネタバレ」であると同時に、「読んでないと意味が分からない」書き方をしているため、このマンガを読んでいない人にとって、百害あって一利なしの内容だと思うからです。
○「漫画版ナウシカ」のラスト
まず、漫画版ナウシカのラストに関して、ポイントになることを簡単にまとめたいと思います。
1. 腐海の生態系は、実は旧世界の人間が産み出したものだった。旧世界では、世界が汚染され、そのままでは人間が絶滅するしかないと思われた。そこで、「世界を浄化するためのプログラム」の一貫として、遺伝子工学技術を使って、腐海の生物たちが作り出された。腐海の生物は、長い時間をかけて大地を浄化し、その後には、(読者である)私たちが生きている世界と同じような、清浄で豊かな世界が産み出されることになっていた。
2. ナウシカの時代の人間は、腐海の毒に耐えられるが、清浄な世界では生きていくことができないように作り替えられていた。このため、清浄な世界では、短時間で血を吐いて死んでしまう。
3. こうした広大な「浄化のプログラム」を操っているのが、「墓所の主」だった。墓所の主は、憎しみや汚れのない新しい『人間の卵』を準備していて、浄化のプログラムが終了したら、憎しみや汚れのない人間が生きる世界を作りだそうとしていた。また、新しい世界では、「人間のもっとも大切なものは音楽と詩になる」ため、そのための音楽や詩も保存していた。
(墓所の主は、「浄化のプログラムが終了したら、浄化されて世界に適応できる人間に作り替える(元に戻す)」と言っているが、ナウシカはそれを欺瞞だとして否定している。直接は書いていないが、おそらく、『人間の卵』から新しい人間が作り出されるときに、生身の人間が必要で、ナウシカの時代の人間は、そのための手段として生かされていたということではないかと思われる。)
4. ナウシカは、こうした墓所の主の構想に反発し、墓所を破壊するという行動に出る。このために、巨神兵であるオーマを使う。
ほかにも、いろいろ説明しないといけないことがあるのですが、以上もっとも重要な前提です。これ以外のことについては、話の中で随時説明することにしましょう。
○墓所の主は何のメタファーか
ナウシカへの評価は、 結局、そこにどういうメタファーを感じ取るか、 つまり、身の回りのどういう問題に 対応させて理解するか次第だと思います。だから、究極的には人それぞれの解釈ということになるわけですが、当時の時代状況を踏まえて「一般的な解釈」というのは存在すると思います。
そういう意味からすると、「墓所の主」の発想は、一言で言えば、世界をある一つの視点でのみ理解して、それに反するものは排除していくという発想と言えるでしょう。これは、決してナウシカの物語の中だけの問題ではなく、現実の社会のさまざまな問題と重なっています。
おそらく、作者が想定したのは、直接的には、マルクス主義的なユートピア思想(マルクス主義革命によってユートピアが訪れると考える)や、科学技術絶対論(科学技術こそが人間を幸せにする)のようなものだったと思いますが、他のさまざまな問題にも言えることです。特に、論理主義(全てを論理的に理解できるものと考える)、規約主義(「~しなければいけない」という規約で、正義や道徳が説明できると考える)は、現代社会の多くの問題の根底にある大きな問題と言えるでしょう。
このことは、ナウシカが「墓所の主」に向けて言ったセリフ「(お前は)神というわけだ お前は千年の昔 沢山つくられた神の中のひとつなんだ そして千年の間に 肉腫と汚物だらけになってしまった」「浄化の神としてつくられたために 生きるとは何か知ることもなく もっともみにくい者になってしまった」からも読み取れます。この方面の議論に疎い人はピンと来ないと思いますが、「神の視点」という言葉は、論理主義や規約主義のような立場を批判的にとらえるときに、好んで使われる言葉だからです。
これは、ナウシカのストーリー全体で、「多神教」の宗教が肯定的に取り上げられていることも関係しています。キリスト教やユダヤ教の神は「たった一つの神」であり、哲学・思想の分野では、しばしば、論理主義や規約主義のように、自分に当てはまらないものを排除していくことの譬えとして使われます。これに対し、多神教的な神(ギリシャ神話もそうだし、日本の神もそう)は、そうではないとされます。「私達の神は 一枚の葉や一匹のムシにすら宿っているからだ」「私たちの身体(からだ)が人工で作り替えられていても 私達の生命は私達のものだ 生命は生命の力で生きている」とナウシカが言っているように、論理的に見たら、さまざまな矛盾を抱えている「生命」の営みを肯定するものなのです。
ナウシカの世界の「墓所の主」と異なり、現実の「墓所の主」(世界をある一つの視点でのみとらえて、それに反するものは排除していくという発想、たとえば科学主義や論理主義)は、ナウシカの「墓所の主」ほど、発達していないし、現在の人類を絶滅させて「憎しみのない人間」に置き換えるほどの技術も持ち合わせていないわけですが、それにもかかわらず、「墓所の主」のように奢り高ぶっている。それが、ナウシカを通して批判されている現実の問題なのです。
○ナウシカの葛藤
だから、
「生き物を殺すことは許されない」
→だから墓所の主を殺すのも間違っている
「自分が正しいと思うことを一方的に突き通す姿勢は間違っている」
「もっと矛盾を受け入れて生きていくことが必要」
→だから、墓所の主も受け入れないといけない
こういってナウシカに批判的な人は、いろんな意味で「読み違い」をしているのではないかと思います。「いろんな意味で」というのは、ナウシカのストーリーに対する読み違いと同時に、現実の社会に対する読み違いという意味です。
なぜなら、ナウシカは、まさにそういう問題を踏まえ、そのために墓所の主を破壊するという行動に出たからです。ナウシカ、「生き物を殺すことは許されない」と思ったからこそ、生き物を手段として使う墓所の主を破壊しようとしたわけだし、「自分が正しいと思うことを一方的に突き通す姿勢は間違っている」「もっと矛盾を受け入れて生きていくことが必要」だからこそ、矛盾を受け入れない墓所の主を破壊しようとしたのです。
しかし、勘の良い人はすでに気づいたと思いますが、このことは、ナウシカが、ある深刻な葛藤に置かれていたということを示しています。それは、「矛盾を受け入れないといけない」と言いつつ、そのために「墓所の主」という矛盾は否定せざるをえないという葛藤、また、「さまざまな考え方を受け入れないといけない」と言いつつ、「墓所の主」は否定せざるをえないという葛藤、「生命の尊重」と言っておきながら、墓所の主を殺さざるをえないという葛藤です。
これは、次の3点にまとめることができるでしょう。
・生き物を殺すことは許されない」というとき、もし、生き物を何かの手段として平気で殺して、絶滅させてしまおうというような存在(考え方)があったとき、それにどう立ち向かっていけば良いのか?
・「自分が正しいと思うことを一方的に突き通してはいけない」というとき、自分が正しいと思うことを一方的に突き通して、そのために、現在生きている生命をも絶滅させようという存在(考え方)に出会ったとき、それにどう立ち向かっていけば良いのか?
・「矛盾を受け入れて生きていくことが必要」というとき、世界から、一切の矛盾を否定して、矛盾を撲滅しようという存在(考え方)、そのために現在生きている生き物を絶滅させようという存在(考え方)にどのように立ち向かっていけば良いのか?
これはいずれも、「相対主義のパラドックス」と言われている問題であり、現代思想の根底にもあると言える非常に大きな問題でもあるのです。ナウシカはこの大きな問題に真正面から取り組んだと言うことができます。
実際、「ナウシカの葛藤」は、物語の中で、かなり意識的に取り上げられています。たとえば、ナウシカは、戦争の原因となっている「怒り=自分の考えを一方的に押し通す力」に批判的であるにもかかわらず、「怒り」による世界の支配に立ち向かうためには、自分自身も怒りを持たないことを意識するという葛藤が繰り返し出てきます。また、最後に、「墓所の主の血はオームより青かった」、つまり「墓所の主も同じ生命であった」ということが分かるシーンがあるのも、「ナウシカの葛藤」を象徴的に表す出来事と言えるでしょう。これは、現実の世界で、「墓所の主」のような考え方、思想、宗教と闘おうとすると、結局、生身の人間を否定せずにはいられないということと対応しているのです。
では、ナウシカは、こうした葛藤をどのように克服したのでしょうか。実はナウシカは、「ナウシカの葛藤」を克服などしていません。むしろそこでは、こうした葛藤を避けて矛盾を排除するような考え方(論理主義的な思考)が、「墓所の主」に象徴されるものとして、批判されているのです。
たとえば、ナウシカでは「生命の尊重」がテーマになっています。しかし、そこで言われているのは「生命を殺してはいけない」という規約・戒律(倫理原則)ではありません。私たちは、ともすると「生命の尊重」を「生命を殺してはいけない」という規約・戒律(=墓所の主のような発想)で理解してしまうわけですが、ナウシカで表現されているのは、「倫理原則=矛盾の排除」となる前の、もっと原初的な「生命の尊重」なのです。ナウシカでは、ムシ使い達が、ムシの卵を食べたり、ムシを殺したりするシーンがあると思いますが、森はこれを受け入れているというのが、その例でしょう。
ナウシカの行為を矛盾しているという人がいるかもしれませんが、ナウシカは、そういった葛藤を受け入れて生きていく生き方を選択したという意味で、実は全く矛盾していないのです。「相対主義のパラドックス」は「墓所の主」のように論理的に、一面的にものごとを理解する立場からは簡単には解決することができません。しかし、ナウシカは「生きること」に注目することで、「相対主義のパラドックス」を乗り越えているのです。
○ナウシカとニヒリズム
このことは、ナウシカのもう一つのテーマである「虚無」とも深く関係しています。
墓所の主はナウシカを批判して「虚無だ!!それは虚無だ お前は危険な闇だ 生命は光だ!!」と言います。これに対してナウシカは反論します。「違う いのちは闇の中のまたたく光だ!!」「すべては闇から生まれ闇に帰る お前達も闇に帰るが良い!!」。ナウシカは、「虚無」を肯定するのです。
知らない人が見ると何を言っているのか分からないと思いますが、これはいわゆる「虚無主義(ニヒリズム)」の問題そのものです。ニヒリズムというと、通俗的には「すべての価値を否定して絶望の中に生きる生き方」という意味で使われる場合が多いと思いますが、これは本来の意味ではありません。ニーチェの言う(本来の)ニヒリズムは端的に言えば、「自分の生きる価値が何ものかによって与えられる否定して、生きるこのそのものを肯定していく生き方」ということです。両者を区別する場合は、前者の生きることに絶望するようなニヒリズムを「受動的ニヒリズム」、後者の生きることそのものを肯定するようなニヒリズムを「能動的ニヒリズム」と呼びます。
これを前提にして考えると、ナウシカは途中まで、「受動的ニヒリズム」に悩まされるが、墓所の主と対峙するに至って、「能動的ニヒリズム」に目覚めるというストーリーになっているということが分かるでしょう。物語の途中で繰り返し、ナウシカが「虚無」に悩まされるシーンが出現するのは、ナウシカが能動的ニヒリズムに目覚めるためのプロセスなのです。
ニヒリズムの特徴は、「何か別のものによって、自分の価値が決められる」ということを否定するということです。ニーチェは、ニヒリズムを、「苦しみに耐える」ようなキリスト教道徳の否定という形で象徴的に表現しました。「私達の生が、キリスト教の神によって初めて価値づけられる」というキリスト教道徳に対し、「(神がいなくても)生きることそのものが肯定される」というのがニーチェのニヒリズムなのです。これは、ナウシカが「墓所の主=神」を破壊しようとした、根本的な問題意識でもあるでしょう。ただ、ニヒリズムは、「神の否定」だけを意味するわけではありません。「論理主義な考え方(矛盾を排除するような考え方)を基準に自分の価値を決める」生き方に対して、「生きていく上での喜び、苦しみ、そこからくる葛藤を、そのまま肯定していこうよ」というのもニヒリズムです。ナウシカにおいて、墓所の主=神というのはあくまでメタファーであり、現実社会に当てはめれば、こうした「(社会の矛盾の源泉となっている)論理主義的な発想の否定」という側面が大きいのではないかと思います。
つまり、ナウシカは、墓所の主のように論理主義的な考え方によって初めて人間の価値が見いだされるような生き方を拒否し、「自分の生そのものを肯定する」「自分の中の葛藤もそのまま受け入れていく」能動的ニヒリスト、ニーチェの言う「超人」としての道を選んだわけです。
余談ですが、ニーチェのニヒリズムは、「他者と同じであることに価値を置く」ことの否定でもあるので、「個人主義」との関連で理解されることが多いようです。ただ、ニヒリズムを「個人主義」というのは、かなり誤解を招く表現です。なぜなら、ニヒリズムを「個人主義」と言ったとしても、周囲の人のことを考えないわがままな生き方を指すのではないからです。能動的ニヒリズムは、自分が生きていくことによって、周囲の人の素晴らしさ、人間関係の大切さを見いだすということも含むのであり、通俗的な意味での「個人主義」とは大きく違います。ニヒリズム=通俗的な個人主義と考えるのは誤りだし、これを基準にナウシカの「虚無」の概念を理解してはいけないのです。
○ナウシカの生き方
さて、「ナウシカの葛藤」に話を戻したいと思います。
「生きることそのものを肯定し、葛藤を受け入れて生きていく」と言っても、葛藤そのものがなくなるわけではありません。実際、ナウシカの作者は、ストーリーのさまざまな場所で、「ナウシカの葛藤」、そしてそれを受け入れて生きていくことの苦悩を取り上げているわけであり、ナウシカの葛藤を受け入れることが簡単ではないのは明らかでしょう。これは、ナウシカが正しく理解されない最大の理由ではないかと思います。ナウシカの葛藤を受け入れるということは、自分自身の生き方の中で、こうした葛藤を受け入れて生きていくということであり、それは決して簡単なことではないからです。
ただ、私たちはナウシカそのものになれないにしても、現実の世界で、ナウシカと同じような葛藤と向き合い、その中で生きていくことはできます。自分の身の回りの人間関係の問題、自分の生き方の問題、社会の不条理、こうした問題に向き合ったときに、既成の価値観に逃げることなく、まさに自分が生きる上での問題として立ち向かっていく、そういう生き方はできるはずなのです。そしてそれこそが、私達にとっての「ナウシカの生き方」と言うことができるでしょう。ナウシカが提起した問題は決して架空の世界の問題ではなく、まさに私たちが生きていく上での問題なのです。
●ネット上の記事に対するコメント
以上で本題は終わりですが、最後に、2つのネット上の記事に対して、コメントをしたいと思います。
この記事は、Googleで「風の谷ナウシカ」で検索すると上位に出ますが、ナウシカが書かれた背景を全く理解していないと言わざるをえません。この記事の作者は次のように書きます。
では、いったいなにがメインテーマになっていくのでしょうか。
それは、自然にしろ、社会にしろ、破滅的な難局を前にしてどんな態度でそれにあたるのかということだと思います。
もちろん、そうやって表面的に理解することもできるかもしれませんが、そういう表面的な理解で批判することにほとんど意味はないでしょう。メインテーマをこのように設定してしまったら、当然、結論は「ナウシカは間違っている」ということになると思いますが、これではナウシカがあまりにもかわいそうです。
これに反論するのは、あまりにもばからしいので、この程度にしておきます。
こちらは、上のサイトと比べるとはるかに細かく読み込んでいます。それにもかかわらず。あまり検索順位が高くないのが残念なところでしょう。こちらの人は、以下のようにまとめています。
以上を更に要約すると、ナウシカのメッセイジが見えてくる。巷間言われるように、環境問題などの話ではないことがわかる。
我々の生命は我々のものだ。生命は自立している。何かの目的に向かってそれを達成していくように設定されているのではない。未来は約束されたものではない。不確定のものである。現在を主体的に生きることによって、苦悩が生ずるが、それと共に世界の美しさも知ることができる。これが我々の生の価値だ。だから苦しくても生きて行きましょう。
なんでもない結論ということが分かるだろう。世界は大きな犠牲を払ったが、ナウシカが出した結論は、当たり前のものであった。
「ナウシカのメッセージ」としてまとめられた部分を個別に見ると、正しい面もあるのですが、この人は根本的な間違いを犯していると思います。それは、ナウシカのメッセージを全体として「だから苦しくても生きて行きましょう」とまとめていることです。
実は、「だから苦しくても生きて行きましょう」という立場は、ナウシカではなく、墓所の主に近いのです。「浄化のための大いなる苦しみを罪への償いとして やがて再建へのかがやかしい朝が来よう」という言葉がそれです。これは、まさにニーチェが批判したキリスト教的な生き方であり、マンガの上でもこの一コマにおいてだけ、墓所の主の顔が、キリスト教における神やイエスのステレオタイプとも言える顔(少し頬のこけた端正な顔の老人)に変化していることが、そのことを表していると言えるでしょう。
端的に言うと、「(神の下で)罪を償いながら、苦しみの中で生きていこう」という墓所の主に対して、ナウシカは「(神のようなものを基準にしなくても)喜びと苦しみは生きることそのものの中にある」と言っていることになります。たしかに、この二つ、「苦しみをともなう生を肯定する」ことには変わりません。しかし、肯定の仕方が真逆なのです。墓所の主の場合、「神」、「罪」や「苦しみ」が先にあって、その中に「生」があるわけですが、ナウシカの発想では、「生」の方が先にあって、その中に苦しみや喜びがあるのです。これは根本的に違います。「苦しみの中の生」か「生の中の苦しみか」の違いです。たしかに、ナウシカのメッセージを「苦しみの中の生」と理解するのなら、「ナウシカが出した結論は、当たり前のもの」ですが、ナウシカはそれと全く正反対のことを言っているということが重要ではないかと思います。
これと関係して、上記の引用の直前に、ナウシカの素晴らしさを「精神の偉大さ」とまとめている部分がありますが、これも間違いだと思います。本来、「精神の偉大さ」を認めるのは神(あるいは何かの特定の基準)であり、「偉大な精神であろう」という試みは、結局、「神の世界の中で生きる」という、ナウシカが批判しようとした生き方になってしまいます。実際、「精神の偉大さ」というのは、ナウシカのセリフにはどこにもありません。ナウシカのメッセージは、「(何かを基準にした)精神の偉大さなどなくても、生命はそれ自体として素晴らしいのだ」ということです。これは似ているようで根本的に違うのです。(削除理由はコメント欄を参照してください)
「ナウシカ研究序説」は、かなり丁寧にナウシカを読み込んでいて、自分も敬服するほどなのですが、これほどまで丁寧に読んだ人が、最後の部分で、こうした間違いに陥ってしまうのは、私達の発想の中に「墓所の主」が常にあって、ナウシカを読むときもそこから理解しようとしてしまうからだと思います。「墓所の主」は、決して私達の外側にいるのではなく、私達の心の中にいるのです。
この文章が、心の中の「墓所の主」を理解し、そしてナウシカを理解するために少しでも役立つものになれば幸いです。
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