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發表於 2015-9-28 13:29:32 | 顯示全部樓層 |閱讀模式
漫画版「風の谷のナウシカ」のラストについて
映画・テレビ | 2009/08/14

お知らせ:この記事に関する補足記事を書きました
「風の谷のナウシカ」は、多くの人が知っているアニメ映画ですが、この映画の原作となる漫画版の「風の谷のナウシカ」では、ラストが大きく違っているということは有名です。そして、この「マンガ版ナウシカ」は、思想史に残る重要な作品と言われる一方、根強い反対意見もあるようです。特に、ネット上で検索をすると、ほとんどの人がナウシカに批判的なコメントをしています。
自分は、最近、やっと「漫画版ナウシカ」を読むことができたのですが、ラストシーンでのナウシカの行動に共感すると同時に、「なぜ、ナウシカはあのような行動をとったのか」そして、「なぜ、ナウシカの行動が理解されないのか」ということについて、自分の学問的なバックグラウンドを踏まえて、きちんとまとめておかないといけないと強く思いました。特に、ネット上の意見が誤解に満ちたものであったため、そうした誤解を解く必要があると思ったからです。
最初に強く言っておきたいのですが、原作を読んでいない人は、この文章を読み進む前に、ぜひ原作を読んでいただきたいと思います(右のリンクからも簡単に買えます)。以下の文章は、「ネタバレ」であると同時に、「読んでないと意味が分からない」書き方をしているため、このマンガを読んでいない人にとって、百害あって一利なしの内容だと思うからです。

○「漫画版ナウシカ」のラスト
まず、漫画版ナウシカのラストに関して、ポイントになることを簡単にまとめたいと思います。
1. 腐海の生態系は、実は旧世界の人間が産み出したものだった。旧世界では、世界が汚染され、そのままでは人間が絶滅するしかないと思われた。そこで、「世界を浄化するためのプログラム」の一貫として、遺伝子工学技術を使って、腐海の生物たちが作り出された。腐海の生物は、長い時間をかけて大地を浄化し、その後には、(読者である)私たちが生きている世界と同じような、清浄で豊かな世界が産み出されることになっていた。
2. ナウシカの時代の人間は、腐海の毒に耐えられるが、清浄な世界では生きていくことができないように作り替えられていた。このため、清浄な世界では、短時間で血を吐いて死んでしまう。
3. こうした広大な「浄化のプログラム」を操っているのが、「墓所の主」だった。墓所の主は、憎しみや汚れのない新しい『人間の卵』を準備していて、浄化のプログラムが終了したら、憎しみや汚れのない人間が生きる世界を作りだそうとしていた。また、新しい世界では、「人間のもっとも大切なものは音楽と詩になる」ため、そのための音楽や詩も保存していた。
(墓所の主は、「浄化のプログラムが終了したら、浄化されて世界に適応できる人間に作り替える(元に戻す)」と言っているが、ナウシカはそれを欺瞞だとして否定している。直接は書いていないが、おそらく、『人間の卵』から新しい人間が作り出されるときに、生身の人間が必要で、ナウシカの時代の人間は、そのための手段として生かされていたということではないかと思われる。)
4. ナウシカは、こうした墓所の主の構想に反発し、墓所を破壊するという行動に出る。このために、巨神兵であるオーマを使う。
ほかにも、いろいろ説明しないといけないことがあるのですが、以上もっとも重要な前提です。これ以外のことについては、話の中で随時説明することにしましょう。

○墓所の主は何のメタファーか
ナウシカへの評価は、 結局、そこにどういうメタファーを感じ取るか、 つまり、身の回りのどういう問題に 対応させて理解するか次第だと思います。だから、究極的には人それぞれの解釈ということになるわけですが、当時の時代状況を踏まえて「一般的な解釈」というのは存在すると思います。
そういう意味からすると、「墓所の主」の発想は、一言で言えば、世界をある一つの視点でのみ理解して、それに反するものは排除していくという発想と言えるでしょう。これは、決してナウシカの物語の中だけの問題ではなく、現実の社会のさまざまな問題と重なっています。
おそらく、作者が想定したのは、直接的には、マルクス主義的なユートピア思想(マルクス主義革命によってユートピアが訪れると考える)や、科学技術絶対論(科学技術こそが人間を幸せにする)のようなものだったと思いますが、他のさまざまな問題にも言えることです。特に、論理主義(全てを論理的に理解できるものと考える)、規約主義(「~しなければいけない」という規約で、正義や道徳が説明できると考える)は、現代社会の多くの問題の根底にある大きな問題と言えるでしょう。
このことは、ナウシカが「墓所の主」に向けて言ったセリフ「(お前は)神というわけだ お前は千年の昔 沢山つくられた神の中のひとつなんだ そして千年の間に 肉腫と汚物だらけになってしまった」「浄化の神としてつくられたために 生きるとは何か知ることもなく もっともみにくい者になってしまった」からも読み取れます。この方面の議論に疎い人はピンと来ないと思いますが、「神の視点」という言葉は、論理主義や規約主義のような立場を批判的にとらえるときに、好んで使われる言葉だからです。
これは、ナウシカのストーリー全体で、「多神教」の宗教が肯定的に取り上げられていることも関係しています。キリスト教やユダヤ教の神は「たった一つの神」であり、哲学・思想の分野では、しばしば、論理主義や規約主義のように、自分に当てはまらないものを排除していくことの譬えとして使われます。これに対し、多神教的な神(ギリシャ神話もそうだし、日本の神もそう)は、そうではないとされます。「私達の神は 一枚の葉や一匹のムシにすら宿っているからだ」「私たちの身体(からだ)が人工で作り替えられていても 私達の生命は私達のものだ 生命は生命の力で生きている」とナウシカが言っているように、論理的に見たら、さまざまな矛盾を抱えている「生命」の営みを肯定するものなのです。
ナウシカの世界の「墓所の主」と異なり、現実の「墓所の主」(世界をある一つの視点でのみとらえて、それに反するものは排除していくという発想、たとえば科学主義や論理主義)は、ナウシカの「墓所の主」ほど、発達していないし、現在の人類を絶滅させて「憎しみのない人間」に置き換えるほどの技術も持ち合わせていないわけですが、それにもかかわらず、「墓所の主」のように奢り高ぶっている。それが、ナウシカを通して批判されている現実の問題なのです。

○ナウシカの葛藤
だから、
「生き物を殺すことは許されない」
→だから墓所の主を殺すのも間違っている
「自分が正しいと思うことを一方的に突き通す姿勢は間違っている」
「もっと矛盾を受け入れて生きていくことが必要」
→だから、墓所の主も受け入れないといけない
こういってナウシカに批判的な人は、いろんな意味で「読み違い」をしているのではないかと思います。「いろんな意味で」というのは、ナウシカのストーリーに対する読み違いと同時に、現実の社会に対する読み違いという意味です。
なぜなら、ナウシカは、まさにそういう問題を踏まえ、そのために墓所の主を破壊するという行動に出たからです。ナウシカ、「生き物を殺すことは許されない」と思ったからこそ、生き物を手段として使う墓所の主を破壊しようとしたわけだし、「自分が正しいと思うことを一方的に突き通す姿勢は間違っている」「もっと矛盾を受け入れて生きていくことが必要」だからこそ、矛盾を受け入れない墓所の主を破壊しようとしたのです。
しかし、勘の良い人はすでに気づいたと思いますが、このことは、ナウシカが、ある深刻な葛藤に置かれていたということを示しています。それは、「矛盾を受け入れないといけない」と言いつつ、そのために「墓所の主」という矛盾は否定せざるをえないという葛藤、また、「さまざまな考え方を受け入れないといけない」と言いつつ、「墓所の主」は否定せざるをえないという葛藤、「生命の尊重」と言っておきながら、墓所の主を殺さざるをえないという葛藤です。
これは、次の3点にまとめることができるでしょう。
・生き物を殺すことは許されない」というとき、もし、生き物を何かの手段として平気で殺して、絶滅させてしまおうというような存在(考え方)があったとき、それにどう立ち向かっていけば良いのか?
・「自分が正しいと思うことを一方的に突き通してはいけない」というとき、自分が正しいと思うことを一方的に突き通して、そのために、現在生きている生命をも絶滅させようという存在(考え方)に出会ったとき、それにどう立ち向かっていけば良いのか?
・「矛盾を受け入れて生きていくことが必要」というとき、世界から、一切の矛盾を否定して、矛盾を撲滅しようという存在(考え方)、そのために現在生きている生き物を絶滅させようという存在(考え方)にどのように立ち向かっていけば良いのか?
これはいずれも、「相対主義のパラドックス」と言われている問題であり、現代思想の根底にもあると言える非常に大きな問題でもあるのです。ナウシカはこの大きな問題に真正面から取り組んだと言うことができます。
実際、「ナウシカの葛藤」は、物語の中で、かなり意識的に取り上げられています。たとえば、ナウシカは、戦争の原因となっている「怒り=自分の考えを一方的に押し通す力」に批判的であるにもかかわらず、「怒り」による世界の支配に立ち向かうためには、自分自身も怒りを持たないことを意識するという葛藤が繰り返し出てきます。また、最後に、「墓所の主の血はオームより青かった」、つまり「墓所の主も同じ生命であった」ということが分かるシーンがあるのも、「ナウシカの葛藤」を象徴的に表す出来事と言えるでしょう。これは、現実の世界で、「墓所の主」のような考え方、思想、宗教と闘おうとすると、結局、生身の人間を否定せずにはいられないということと対応しているのです。
では、ナウシカは、こうした葛藤をどのように克服したのでしょうか。実はナウシカは、「ナウシカの葛藤」を克服などしていません。むしろそこでは、こうした葛藤を避けて矛盾を排除するような考え方(論理主義的な思考)が、「墓所の主」に象徴されるものとして、批判されているのです。
たとえば、ナウシカでは「生命の尊重」がテーマになっています。しかし、そこで言われているのは「生命を殺してはいけない」という規約・戒律(倫理原則)ではありません。私たちは、ともすると「生命の尊重」を「生命を殺してはいけない」という規約・戒律(=墓所の主のような発想)で理解してしまうわけですが、ナウシカで表現されているのは、「倫理原則=矛盾の排除」となる前の、もっと原初的な「生命の尊重」なのです。ナウシカでは、ムシ使い達が、ムシの卵を食べたり、ムシを殺したりするシーンがあると思いますが、森はこれを受け入れているというのが、その例でしょう。
ナウシカの行為を矛盾しているという人がいるかもしれませんが、ナウシカは、そういった葛藤を受け入れて生きていく生き方を選択したという意味で、実は全く矛盾していないのです。「相対主義のパラドックス」は「墓所の主」のように論理的に、一面的にものごとを理解する立場からは簡単には解決することができません。しかし、ナウシカは「生きること」に注目することで、「相対主義のパラドックス」を乗り越えているのです。

○ナウシカとニヒリズム
このことは、ナウシカのもう一つのテーマである「虚無」とも深く関係しています。
墓所の主はナウシカを批判して「虚無だ!!それは虚無だ お前は危険な闇だ 生命は光だ!!」と言います。これに対してナウシカは反論します。「違う いのちは闇の中のまたたく光だ!!」「すべては闇から生まれ闇に帰る お前達も闇に帰るが良い!!」。ナウシカは、「虚無」を肯定するのです。
知らない人が見ると何を言っているのか分からないと思いますが、これはいわゆる「虚無主義(ニヒリズム)」の問題そのものです。ニヒリズムというと、通俗的には「すべての価値を否定して絶望の中に生きる生き方」という意味で使われる場合が多いと思いますが、これは本来の意味ではありません。ニーチェの言う(本来の)ニヒリズムは端的に言えば、「自分の生きる価値が何ものかによって与えられる否定して、生きるこのそのものを肯定していく生き方」ということです。両者を区別する場合は、前者の生きることに絶望するようなニヒリズムを「受動的ニヒリズム」、後者の生きることそのものを肯定するようなニヒリズムを「能動的ニヒリズム」と呼びます。
これを前提にして考えると、ナウシカは途中まで、「受動的ニヒリズム」に悩まされるが、墓所の主と対峙するに至って、「能動的ニヒリズム」に目覚めるというストーリーになっているということが分かるでしょう。物語の途中で繰り返し、ナウシカが「虚無」に悩まされるシーンが出現するのは、ナウシカが能動的ニヒリズムに目覚めるためのプロセスなのです。
ニヒリズムの特徴は、「何か別のものによって、自分の価値が決められる」ということを否定するということです。ニーチェは、ニヒリズムを、「苦しみに耐える」ようなキリスト教道徳の否定という形で象徴的に表現しました。「私達の生が、キリスト教の神によって初めて価値づけられる」というキリスト教道徳に対し、「(神がいなくても)生きることそのものが肯定される」というのがニーチェのニヒリズムなのです。これは、ナウシカが「墓所の主=神」を破壊しようとした、根本的な問題意識でもあるでしょう。ただ、ニヒリズムは、「神の否定」だけを意味するわけではありません。「論理主義な考え方(矛盾を排除するような考え方)を基準に自分の価値を決める」生き方に対して、「生きていく上での喜び、苦しみ、そこからくる葛藤を、そのまま肯定していこうよ」というのもニヒリズムです。ナウシカにおいて、墓所の主=神というのはあくまでメタファーであり、現実社会に当てはめれば、こうした「(社会の矛盾の源泉となっている)論理主義的な発想の否定」という側面が大きいのではないかと思います。
つまり、ナウシカは、墓所の主のように論理主義的な考え方によって初めて人間の価値が見いだされるような生き方を拒否し、「自分の生そのものを肯定する」「自分の中の葛藤もそのまま受け入れていく」能動的ニヒリスト、ニーチェの言う「超人」としての道を選んだわけです。
余談ですが、ニーチェのニヒリズムは、「他者と同じであることに価値を置く」ことの否定でもあるので、「個人主義」との関連で理解されることが多いようです。ただ、ニヒリズムを「個人主義」というのは、かなり誤解を招く表現です。なぜなら、ニヒリズムを「個人主義」と言ったとしても、周囲の人のことを考えないわがままな生き方を指すのではないからです。能動的ニヒリズムは、自分が生きていくことによって、周囲の人の素晴らしさ、人間関係の大切さを見いだすということも含むのであり、通俗的な意味での「個人主義」とは大きく違います。ニヒリズム=通俗的な個人主義と考えるのは誤りだし、これを基準にナウシカの「虚無」の概念を理解してはいけないのです。

○ナウシカの生き方
さて、「ナウシカの葛藤」に話を戻したいと思います。
「生きることそのものを肯定し、葛藤を受け入れて生きていく」と言っても、葛藤そのものがなくなるわけではありません。実際、ナウシカの作者は、ストーリーのさまざまな場所で、「ナウシカの葛藤」、そしてそれを受け入れて生きていくことの苦悩を取り上げているわけであり、ナウシカの葛藤を受け入れることが簡単ではないのは明らかでしょう。これは、ナウシカが正しく理解されない最大の理由ではないかと思います。ナウシカの葛藤を受け入れるということは、自分自身の生き方の中で、こうした葛藤を受け入れて生きていくということであり、それは決して簡単なことではないからです。
ただ、私たちはナウシカそのものになれないにしても、現実の世界で、ナウシカと同じような葛藤と向き合い、その中で生きていくことはできます。自分の身の回りの人間関係の問題、自分の生き方の問題、社会の不条理、こうした問題に向き合ったときに、既成の価値観に逃げることなく、まさに自分が生きる上での問題として立ち向かっていく、そういう生き方はできるはずなのです。そしてそれこそが、私達にとっての「ナウシカの生き方」と言うことができるでしょう。ナウシカが提起した問題は決して架空の世界の問題ではなく、まさに私たちが生きていく上での問題なのです。
●ネット上の記事に対するコメント
以上で本題は終わりですが、最後に、2つのネット上の記事に対して、コメントをしたいと思います。
この記事は、Googleで「風の谷ナウシカ」で検索すると上位に出ますが、ナウシカが書かれた背景を全く理解していないと言わざるをえません。この記事の作者は次のように書きます。
では、いったいなにがメインテーマになっていくのでしょうか。
それは、自然にしろ、社会にしろ、破滅的な難局を前にしてどんな態度でそれにあたるのかということだと思います。
もちろん、そうやって表面的に理解することもできるかもしれませんが、そういう表面的な理解で批判することにほとんど意味はないでしょう。メインテーマをこのように設定してしまったら、当然、結論は「ナウシカは間違っている」ということになると思いますが、これではナウシカがあまりにもかわいそうです。
これに反論するのは、あまりにもばからしいので、この程度にしておきます。
こちらは、上のサイトと比べるとはるかに細かく読み込んでいます。それにもかかわらず。あまり検索順位が高くないのが残念なところでしょう。こちらの人は、以下のようにまとめています。
以上を更に要約すると、ナウシカのメッセイジが見えてくる。巷間言われるように、環境問題などの話ではないことがわかる。
我々の生命は我々のものだ。生命は自立している。何かの目的に向かってそれを達成していくように設定されているのではない。未来は約束されたものではない。不確定のものである。現在を主体的に生きることによって、苦悩が生ずるが、それと共に世界の美しさも知ることができる。これが我々の生の価値だ。だから苦しくても生きて行きましょう。
なんでもない結論ということが分かるだろう。世界は大きな犠牲を払ったが、ナウシカが出した結論は、当たり前のものであった。
「ナウシカのメッセージ」としてまとめられた部分を個別に見ると、正しい面もあるのですが、この人は根本的な間違いを犯していると思います。それは、ナウシカのメッセージを全体として「だから苦しくても生きて行きましょう」とまとめていることです。
実は、「だから苦しくても生きて行きましょう」という立場は、ナウシカではなく、墓所の主に近いのです。「浄化のための大いなる苦しみを罪への償いとして やがて再建へのかがやかしい朝が来よう」という言葉がそれです。これは、まさにニーチェが批判したキリスト教的な生き方であり、マンガの上でもこの一コマにおいてだけ、墓所の主の顔が、キリスト教における神やイエスのステレオタイプとも言える顔(少し頬のこけた端正な顔の老人)に変化していることが、そのことを表していると言えるでしょう。
端的に言うと、「(神の下で)罪を償いながら、苦しみの中で生きていこう」という墓所の主に対して、ナウシカは「(神のようなものを基準にしなくても)喜びと苦しみは生きることそのものの中にある」と言っていることになります。たしかに、この二つ、「苦しみをともなう生を肯定する」ことには変わりません。しかし、肯定の仕方が真逆なのです。墓所の主の場合、「神」、「罪」や「苦しみ」が先にあって、その中に「生」があるわけですが、ナウシカの発想では、「生」の方が先にあって、その中に苦しみや喜びがあるのです。これは根本的に違います。「苦しみの中の生」か「生の中の苦しみか」の違いです。たしかに、ナウシカのメッセージを「苦しみの中の生」と理解するのなら、「ナウシカが出した結論は、当たり前のもの」ですが、ナウシカはそれと全く正反対のことを言っているということが重要ではないかと思います。
これと関係して、上記の引用の直前に、ナウシカの素晴らしさを「精神の偉大さ」とまとめている部分がありますが、これも間違いだと思います。本来、「精神の偉大さ」を認めるのは神(あるいは何かの特定の基準)であり、「偉大な精神であろう」という試みは、結局、「神の世界の中で生きる」という、ナウシカが批判しようとした生き方になってしまいます。実際、「精神の偉大さ」というのは、ナウシカのセリフにはどこにもありません。ナウシカのメッセージは、「(何かを基準にした)精神の偉大さなどなくても、生命はそれ自体として素晴らしいのだ」ということです。これは似ているようで根本的に違うのです。(削除理由はコメント欄を参照してください)
「ナウシカ研究序説」は、かなり丁寧にナウシカを読み込んでいて、自分も敬服するほどなのですが、これほどまで丁寧に読んだ人が、最後の部分で、こうした間違いに陥ってしまうのは、私達の発想の中に「墓所の主」が常にあって、ナウシカを読むときもそこから理解しようとしてしまうからだと思います。「墓所の主」は、決して私達の外側にいるのではなく、私達の心の中にいるのです。
この文章が、心の中の「墓所の主」を理解し、そしてナウシカを理解するために少しでも役立つものになれば幸いです。
●関連記事
「風の谷のナウシカ」について補足
→この記事で書き忘れたことの補足です。合わせて読んでいただければと思います。

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コメント
こんにちは
大変興味深い考察で楽しく読ませて頂きました
ですが引っかかったところがあるのでコメントします。
私自身人文系の学問には疎く稚拙な内容となってしまうことが自分でも分かっているのでそこの部分はご容赦ください。

「ナウシカ研究序説」様に関する記事で後半の「精神の偉大さ」の部分です。
精神の偉大さを認めるのは神・・・とあります。
これは神の部分を人とも読み替えることが出来るので異論はありません。
しかし問題はその次で精神の偉大さを認められるという事は神(人)の世界の中で生きると展開されている点です。
これは理論の飛躍と言いますか、強引なこじつけであると感じます。
精神の偉大さを認めるという行為に対してナウシカ自身はどれだけの影響を受けると考えられているのでしょうか?
これはむしろ精神の偉大さを認める側がナウシカという対象の世界に入り込んでこそ可能になるもので、
神の方がナウシカという基準を受け入れてた結果になるのです。
私は「精神の偉大さ」も「素晴らしさ」とやらもその対象の本質になんら影響するものではなく、
その対象の方から受けた影響を表す言葉だと思うのです。
簡単に言ってしまえば「評価」なんですよね・・・
こんなものは無知な者でもできてしまいます。
神にそのような評価を受けたとしても、神の世界で生きているとはいえないということですね。

ちなみにナウシカは「精神の偉大さ」という言葉を使ってますよ。
ワイド版なら7巻目の133Pで、
「精神の偉大さは苦悩の深さで決まる~」
と森の人に提言しています。
本当は他の部分に関してもコメントしたいのですが、
今日はここまでにします。
どうもありがとうございました

投稿: ぽば | 2009/08/23 20:03:05


貴重なコメント、ありがとうございます。
> ちなみにナウシカは「精神の偉大さ」という言葉を使ってますよ。
> ワイド版なら7巻目の133Pで、
> 「精神の偉大さは苦悩の深さで決まる~」
> と森の人に提言しています。
そうだとすると、これについて本文で取り上げたのは
適切ではなかったと思います。
原作にない言葉だというのを前提に書いたのですが、
もし原作にある言葉だとしたら、
話が複雑になってしまうからです。
まず、この場を借りて、説明しなおしますが、
「精神の偉大さ」と言ったときに、
自分以外の何か(たとえば神)を基準にした「精神の偉大さ」という理解だと、
ナウシカのストーリーとは異なる理解になるでしょう。
しかし、「精神の偉大さ」を認めるのが、
自分自身であるということであれば、
ナウシカの話とは矛盾しません。
一般に、「精神の偉大さ」というような言葉は、
前者の意味で使われることが多い言葉だと思いますが、
後者の意味で使うこともできます。
したがって、原作にある「精神の偉大さ」という言葉に、
何か問題があるわけではないと思います。
自分は、引用先の文章にあった「精神の偉大さ」という言葉を、
「何ものかによってナウシカの精神が評価され、そして偉大と判断される」
という一般的な意味で解釈して、
それを批判したわけです。
しかし、原作にある言葉だとしたら、自分の解釈そのものが微妙だし、
かりに、引用先の文章の筆者が、何か誤解をしているのだとしても、
もっと詳細に説明しなければいけない話だったと言えるでしょう。
本文に書いたようなナイーブな書き方は誤りであり、
また、誤解を生じさせるだけですので、
該当する記述は削除させていただきます。
(ただし、この議論が一段落するまでは、取り消し線での削除とします)
ただ、おっしゃていることは良く意味が分かりませんでした。
>「ナウシカ研究序説」様に関する記事で後半の「精神の偉大さ」の部分です。
> 精神の偉大さを認めるのは神・・・とあります。
> これは神の部分を人とも読み替えることが出来るので異論はありません。
> しかし問題はその次で精神の偉大さを認められるという事は
> 神(人)の世界の中で生きると展開されている点です。
> これは理論の飛躍と言いますか、強引なこじつけであると感じます。
> 精神の偉大さを認めるという行為に対して
> ナウシカ自身はどれだけの影響を受けると考えられているのでしょうか?
> これはむしろ精神の偉大さを認める側が
> ナウシカという対象の世界に入り込んでこそ可能になるもので、
> 神の方がナウシカという基準を受け入れてた結果になるのです。
「神の世界の中で生きる」というのは、
すぐ上で説明したように、
「自分以外の何か(たとえば神)を基準にして生きる」ということを
比喩的に述べたものです。
したがって、「精神の偉大さを認めるのは神」ということの
言い換え表現のようなもので、
何か特別なことを言っているわけではないのです。
本文で書いたように、ナウシカのテーマの一つは
「他の何かによって自分の生が評価されるのではない」
ということだと思いますので、
「精神の偉大さ」という言葉を、
「自分以外の何か(たとえば神)を基準にして生きる」という意味で
解釈してはいけないというのが、自分の言いたかったことです。

投稿: 情報学ブログ | 2009/08/25 15:51:18


はじめまして
じっくり読ませていただきました。
そんなに賢くない私ですが・・
ナウシカの漫画版は私が高校時代に完結し
私の思想に大きな影響を与えております
ニーチェや葛藤について、解りやすくまとめてくれていて
自分の思考や生き方が理解しやすくなって良かったです。


投稿: | 2009/12/09 20:37:45


前略
自己紹介いたします。
私は40年以上旅おしています。4カ国語を少しだけ話します。 日本語もある程度読み書きできます。 国籍はにほんじんです。 一般には知られていませんが、裏社会ではユウメイな芸術家です。(24時間365日かんしつきです。) MUMOONと呼んでください。 ご迷惑かけない程度おつき合いさせてください。
私は一般に芸術と呼ばれているもの、美術、音楽、映画など世界的トップレベルの物を好みます。宮崎駿監督(芸術家)の作品の中で”風の谷のナオシカ”(映画)を何回か見せていただきました。感動しました。その後の漫画については息子に頼んで探してきてもらいますので、コメントは今しばらくお待ちください。 あなたの情熱的な文や他の人の物を読ませていただきました。細かい点は今、何ともいえませんが... 映画”風の谷のナヲシカ”を観て、何か偉大な物を感じました。 宮崎駿監督ダン違いの最高の作品だと思います。技術的には、少し古いですが、彼が描こうとした純粋性が光った作品です。 これからもいいコメントガンバってください。
敬具
O`MUMOON 10.07.17
o-mumoon-orgui@hotmail.co.jp



投稿: O`Mumoon | 2010/07/17 2:35:21


ナウシカはそもそもニーチェではありません。
超人でもありませんし。確かにその要素はありますが。
確かにそのように解釈できます。
私も「あ、ニーチェ的だな。」と思いました。
しかし、深く読んでいくと、そうでもありません。
しかし、視点はいいと思いました。
私もナウシカで論文書きたいのであえてまだ私感は
公開しませんが・・・環境対人間なんて・・・乙ですよね。
もぅすこし読み込めば、ニーチェから漏れ出してくるところをみれると思います。
特にナウシカの植物観察なんかや、王蟲感など。
「もぅ少しで分かりそう・・・」というナウシカの世界への捉え方。ナウシカは世界を私感で理解しようとしているのではなく、きちんと把握しようとしているところにあると。
私もナウシカ論書きます♪♪
管理人より:本文で提示したのは「意味づけされないことを理解した上で、あえてそこにとどまる」という考え方ですが、これはニヒリズムのほか、ロマン主義、プラグマティズム、言語哲学、現象学、システム論などにもつながります。後は細かいニュアンスの違いであり、大きく言えば、こういった現代思想の流れを踏まえて書かれた作品ということになると思います。こういった細かい違いを踏まえてあえてニーチェというつもりはありません。
ただ、「虚無」という言葉の解釈としては、どう考えても「ニヒリズム」との関連を指摘するが適切だし、ニヒリズムという言葉を使うためには、ニヒリズムという言葉に対する一般的な誤解を解かないといけません。その流れでニーチェを出しただけであり「ニーチェ的解釈」を示したつもりはないのです。「ナウシカがニーチェ的」と言うのには自分も大変違和感があります。やはり、個人名を出すと、そこばかり注目されるのが難点ですね。
ナウシカ論楽しみにしています。私の記事は「ラストの解釈」を巡る論争に絞って考えたものですが、当然、ナウシカの読みどころはラストだけではないし、これ以外にもさまざまな分析ができると思います。また、ラストに関しても違う解釈はできるでしょう。思想的な流れをあまりにも無視した解釈はどうかと思いますが、これが唯一の解釈と思っているわけではありません。できあがったら、また連絡をいただけると幸いです。

投稿: Hanna | 2010/09/02 2:22:15


自己紹介。学生時代、脳死・臓器移植などに関する
生命倫理を学んだ医者です。
漫画版は、雑誌連載時よりリアルタイムで読み続け、
映画制作などでで中断される度、
「いいから続き書いてくれ」
と思っていました。
この作品は、10年くらいの長時間かけて描かれたもので
あり、宮崎先生もナウシカの考えも、
取り巻く社会も変化し、最初から最後までを
無矛盾で説明しようとすると
どうしてもあらが出てしまうのはしょうがないと思います。
私は墓所の主との対決がよくわからず、
「ニーチェ読まなきゃ」と『ツァラトゥストラはかく語りき』
を読んだのですが、よく分からないままでした。
ただ、大学時代のドイツ語の先生が、
「ニーチェはツァラトゥストラのような生き方をした
のではなく、
ツァラトゥストラのような生き方にあこがれていた」
といっていました。
もしかしたらまだ『超人』は一人も現れてない
可能性もあるのでは?
ニーチェ・ニヒリズム・あの有名な「神は死んだ」
については、あとの宿題ということにさせてください。
管理人より:興味深いコメントありがとうございます。ニーチェの超人を、「超人/非超人」という二項対立的に考えたらそうなるでしょうね。ただ、もっと理念的なものではないかと私自身は理解しています。ちなみに、ナウシカの「虚無」「神」という用語は、明らかにニヒリズムと関係していると思いますが、ニーチェと一対一で対応させて理解する必要はないと思います。

投稿: 村木理紀 | 2010/09/23 13:37:57


読ませていただいて、分かりにくかったところ、
勘違いではないかと思ったことを打たせてもらいます。
原作が実家にあるので、勘違いだったらごめんなさい。

>浄化のプログラムが~
のところの【欺瞞】という言葉です。
生身の“新世界の”人間が必要だ~
の部分で、オンライン辞書の範囲では
“嘘”となっており、
自分の解釈での、
憎しみや汚れ
(汚れは、処女受胎のキリスト教の言葉ですか?)
のない人間が“新世界の”人間の助けなく
生きられるようになったとき、“新世界の”人間
憎しみや汚れのある“新世界”の人間は、
庭の守り人(?)がナウシカの体に何もしなかったら、
と語っていたように、
血を吐き
(これ、ショウキを吸っても「血を吐く」
ので誤解を招きかねないと思います。)、
一人残らず死ぬと少なくとも墓所の主は思っており、
一方ナウシカは、空を飛ぶ鳥(?)の例えから、
もし自分自身は乗り越えられなかったとしても、
(例えば、
ペストでも種としての人間が絶滅しなかったように、)
乗り越え、伝え続ける人間が現れるはずだ
と思っていた。
としたのですがいかがでしょうか?
これはおもしろい解釈ですね。たしかに、そう考えると、もっときれいに理解できます。批判するつもりはありませんが、自分には、原作そのものから、確実にそういう読み取りはできるとは思いませんでした。ありえそうな話ではありますが…


投稿: 村木理紀 | 2010/09/23 14:13:07


<もう一度読み直してください>
ムシの卵をを(頼んで分けてもらい)食べたのは、
森の人です。
ムシ使いの祖先は、
「オウムを組織的に殺し、ダイカイショウを引き起こし、
住むべき場所を失なった」呪われた種族だったはずです。
ただ、ムシを、飢えて苦しみ徐々に死ぬより、
いっそひと思いに、と…
ムシを愛していたとの描写もありました。
最後までナウシカと共にいた「セルム」にも、
ムシ使いの血は流れています。
<ちなみに>
セルム以外の森の人は、ナウシカの境地にまでは
たどり着けなかったようですね。
「偉大な精神と深い苦悩を持つ」
オウムが旧世界の人間が人工的に手段として作り上げられた
生き物とは森の人たちの信仰とあい反するでしょう。
そういったことも含めて、「矛盾を抱えながら生きる」というメッセージだと私は理解しました。本文でも、それを強調して書いたつもりです。ちなみに「人工物」と「環境」の関係については、補足記事の方でちょっと書きました。

投稿: 村木理紀 | 2010/09/23 15:38:54


>「すべては闇から生まれ闇に帰る お前達も闇に帰るが良い!!」。
>ナウシカは、「虚無」を肯定するのです。
もう少し、ここの「虚無」が受動的ニヒリズムか、
能動的ニヒリズムか(後者だと現時点では思います)
説明をお願いします。
皇弟(超能力使いの方)が闇に(虚無へ?)帰ろうとした際、
ナウシカは手を引っ張りました。
ここの闇は、受動的ニヒリズムなのでしょうか?
そして、森の人ですらたどり着けなかった、
浄化された世界へ消えていきます。
自分は「前期ナウシカ・中期ナウシカ・後期ナウシカ」
のように、整合性は追求しなかったのですが、
池田さんはどう解釈されたでしょうか?
たしかに、整合性まで考えると大変だと思います。それで、「ラスト」に絞って記事を書きました。引用された箇所は「能動的」だと思いますが、それ以前については、ナウシカ自身の心の変化と理解しています。それはもしかしたら、原作者自身の方針の揺らぎかもしれないし、意図した揺らぎかもしれません。このあたりについては自分には良く分かりません。

投稿: 村木理紀 | 2010/09/23 16:02:19


初めまして。
捕捉記事も含め興味深く拝見しました。
7巻のラスト間際で、チャルカが墓所より帰還したナウシカを見て「あの服は…王蠱の血よりも青い」と思うくだりが有りますが、どう解釈したものかしっくりくるものを捻り出せません。よろしければお考えをお聞かせください。
・あまり意味はないのか
2P後の「王蠱の体液と墓のそれとが同じだった」というナウシカの心の声を捕捉するためだけの描写である。
・ナウシカが「真の」青き衣の者という事なのか
皇弟が、現れるたびに大騒ぎして引き裂いてしまったという「哀れな犠牲者達」や、過去にエフタルに現れ森の人達を導き予言をしたという「青き衣の者」とも違う特別な存在であるという事なのか。
森の人によれば「青き衣の者」は予言をし導くだけの存在であり、ユパの考えによれば土鬼の民をはじめ多くの人々が「青き衣の者」とその予言をしばしば自身の願望に基づいて解釈してきたらしい。
過去の「青き衣の者」について詳細な描写は無いが、墓所の主の計画を全て知った上で人々に予言し、導いたのは彼女だけだったという点で彼女だけ特別な存在なのだろうか。
・象徴的意味があるのか
ご存じ人間の血は鉄分などによって赤いので、映画監督でもある著者は蠱の代表である王蠱の血を青くする事で「人間とは違う存在」である事を端的に示したかったのかもしれない。SF映画等でアンドロイドがしばしば白い血を流すのも同じ効果を狙っている場合があるだろう。
という事で直前の物語内容(生命についての墓の主との対話)からナウシカが人間以外の存在、ひいては生命全体と繋がった存在になった、等の象徴的意味があるのかもしれない。
もしくは「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まる」のであれば、大破壊前の人々の深い苦悩の結晶とも言える墓の血は王蠱のものより更に青かった=青の濃度が濃い程苦悩している(笑)、という事も有り得るかも。
「青き衣の者」についてはワイド版2巻(以下全てワイド版)P79・P127で僧正によって2回、4巻P29でセルムによって1回、5巻P74で土鬼の部族の長老達が「白い鳥」について1回、7巻P61で皇兄ナムリスの死体を見た土鬼の民達が経文を唱えるシーンとそれをうけてのユパによるセリフ、そして7巻のラストのチャルカの心の声で言及されていました。
他にもあるかもしれません。
余談ですが、アニメ「エヴァンゲリオン」に出てくる敵役・使徒の血も青いそうで。様々な作品の中で「青い血」にそれぞれ何が託されてきたか比較してみるのも面白いかもしれませんね。

投稿: 魔法中年 | 2011/02/07 2:55:17


大変内容の濃いお考えを読ませていただき、感激しております。
私は、今年大学一年生の医学部生です。
ずっと読んでみたいと思っていたナウシカの漫画版をやっと借りることができ読みふけってしまいました。
宮崎駿さんの独特の世界観に強く魅かれておりまして、このナウシカの映画版も例に漏れず何度もみました。
映画だけだとメシア思想と科学技術に対する批判が混じった、割とすっきりとした作品だなと感じていたのですが、漫画版を読んでみるとその内容の重さに悩んで寝込んでしまいました。
私は、科学者になりたいと願っている訳ですからナウシカがとった行動に純粋に賛成することはできません。なぜなら、私は科学を敬愛し、それが人を豊かにしてくれるのだと信じているからです。そして、これは奢りでも理想でもなく事実だったのだという信念があります。
ですから、初めて読んだときはその行動の意味を計りかね、憤りもしました。ナウシカの自らの首を自ら絞めるような行為に幻滅もしました。
ナウシカが何のために自由を求めたのかがわからなかったのです。
「将来の火種を事前に摘むため?いや、それにしてはあまりに過激だ…」
しかし、池田さんのお考えに触れ、それの意味するところを必死に読み解こうと努力すると、墓の主が主張する理論が「そなたたちは罪を背負っている…云々」、まるっきりキリスト教での布教に使われた論法と同じだということに気づきました。
私にはこれが「気付き」でした。
そう考え始めるといろいろな登場人物たちの言動が筆者の主張と強く関係していることがだんだんとわかってきました。
私は哲学の分野には明るくありません。ニーチェの思想と作品と作品とを結びつけて考えるということには目から鱗の思いでした。
この作品を読んだ衝撃は忘れられません。池田さんの深いお考えに触れてその衝撃はさらに大きくなったような気もします。
これから私はまさに科学と生命とが交錯する道を歩んでいこうとしています。
こうして、生命としての意志と科学が真正面から対峙する物語をみると、私の科学への信仰はその都度揺らぎます。
そして、この悩みを科学が解決してくれることはありません。
私自身が悩み、悩み続け、そして悩み抜かなければならないのです。
大変、貴重なお考えをありがとうございました。

「風の谷のナウシカ」について補足
映画・テレビ | 2009/08/26

これは補足記事です。メイン記事はこちら
ちょっと前に「風の谷のナウシカ」のラストについての記事(link)を書きました。そこで、ナウシカを理解する上での基本的なこと(一神教vs.多神教の問題、ニヒリズムの問題)について一通り書いたつもりでいたのですが、その後、この記事に対するいろいろな場所での反応を見ていると、一つ言い忘れたことがあることに気づきました。それは、ナウシカが「系統としての(つまり、先祖から子孫に至る)生命としてのあり方」に注目しているということです。これについて説明しないと、ナウシカのラストの問題(ナウシカvs.墓所の主の対立)についても良く分からないのではないかと思ったので、簡単に補足します。
ちなみに、この記事に「ネタバレ」の要素はそれほど多くないと思いますが、前に自分が書いた記事を前提にしないと、そもそも意味が分からないと思いますので、原作前の記事→この記事という順番で読んでいただけると幸いです。
○ 生命の縦糸と横糸
ナウシカでは、系統としての生命(先祖から子孫へという生命の流れ)が問題にされています。これは、一神教vs.多神教の問題やニヒリズムの問題ほど、セリフにはっきりと現れていませんが、ストーリー全体にわたって「部族」「氏族」といったキーワードが現れ、「子孫を残す」ことの大切さが扱われていることに見て取れるでしょう。そこでは血縁を持つ人々がその子孫を残そうとする「生命」のあり方が注目されていることが分かります。
一方、これとは別に、ナウシカにおいては多くの生命が複雑に絡み合った生態系が問題にされています。腐海の複雑な生態系が「腐海の謎」とされ、ストーリーとともに解明されるようになっていること、腐海のムシたちがテレパシーを介して集合的な意識を持っているとされていることはその一例でしょう。系統としての生命と、生態系としての生命、これは縦糸と横糸のように、ナウシカの世界の「生命」を織りなしているのです。
さて、ナウシカはラストシーンで「人間の卵」を殺して墓所の主を破壊するわけです。「人間の卵」も「ナウシカの時代の人々」も「生命」という意味で同じであるにもかかわらず、どうして人間の卵を殺したのでしょうか。その理由の一つとして、「人類の卵」が、ナウシカの時代の「生命」―つまり、先祖から子孫へという系統としての生命、多くの生物が作る生態系―と別のものとして描かれているということを無視することができないと思います。ナウシカは自分たちの生命が、自分たちと別の流れを汲む生命の手段となることを拒否したわけです。いや、むしろ「生命」というのが、系統と生態系という縦糸と横糸の関係によって初めて成り立つものだとしたら、人間の卵のようなものは生命ではないとまで言えるでしょう。
○ 生命の境界線
こういうナウシカの発想と反対なのが、「人間(生物学的種としてのヒト)」というものを科学的に規定して、その「人間」を残していこうという発想です。以前に「人を殺してはいけないということについて」という記事でも書いたのですが、「人を殺してはいけない」の境界線として科学的に定められる「人間」が採用されるようになったのは、科学が発達して科学的な「人間」の概念が確立してからのことです。現代の私たちは、国際安全保障の枠組みの中で「人権」という概念を使うのが当たり前になっていますが、これも実は、科学的な「人間」の境界線が引かれなければありえないことだったのです。
ナウシカは、こうして「科学的に定められる人間を尊重する」というような立場ではなく、まさに自分たちが投げ込まれている生命の流れを重視する立場を取ったと考えることができます。墓所の主のように、「人間の卵もナウシカも同じように人間じゃないか。より未来まで残る人間の卵の方が大切じゃないか」という主張は、明らかに「科学的に定められる人間」を尊重する立場に基づくものであり、ナウシカの生命観と明確に異なるものだということが言えるでしょう。
◎「墓派」の立場(余談)
余談ですが、こうやって区分すると、自分は立場上、墓所の主の発想も完全には否定できなくなります。自分は、科学や人権概念に基づく人間の尊重は普遍的な概念ではないが、いやないからこそ、こういった考え方を大切に守っていかないといけないと思うからです。
もちろん、「人間の卵」が、人間として尊重される対象かどうかははなはだ疑問ですが、それはあくまで架空の話の中のことなので、どう考えるかは読者の自由でしょう。「人間の卵のような憎しみを持たない人間」「そういった生命が尊重される」ことを、科学や人権と言った現代社会の「秩序」のメタファーと考え、ナウシカをそうした秩序に対する「破壊」のメタファーだと考えるとしたら、その流れで墓所の主を擁護する見方もできるのです。
要するに、現代社会の「墓所の主」は、さまざまな問題の元凶であると同時に、科学や人権と言った素晴らしい秩序の源泉でもあります。作者の意図通り、墓所の主の悪い面に注目すればナウシカの行動に賛成できるでしょうが、作者の意図と反対に墓所の主の良い面に注目すれば、ナウシカの行動に賛成できなくなるのは当然なのです。これは前の記事にも書いたように、ストーリーにどのようなメタファーを読み込むかという問題にほかなりません。「自分には作者の意図通りのメタファーを読み込めない」という人が、ナウシカを好意的に理解できないのは仕方ないでしょう。
ただ、墓所の主はメタファーの一つに過ぎません。墓所の主を好意的に解釈するとなると、「生命」や「ニヒリズム」といった問題の解釈がかなり難しくなるでしょう。ナウシカに批判的な人は、そういったことについては無視するのだと思いますが、それはせっかくの作品を台無しにする残念な読み方であるような気がします。
○ 生命論的ニヒリズム
本題に話を戻します。
前の記事では、ナウシカがニヒリズム的な立場、つまり「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられるのではない」という立場を取っているということについて触れました。これは、ナウシカのストーリーのさまざまなところで出てくるキーワード「虚無」にも現れているし、ラストの墓所の主とナウシカの会話の中にはっきり現れているものです。
ただ、ナウシカのニヒリズムは、通常の意味でのニヒリズムとかなり違います。それは、ナウシカのニヒリズムは、単に「一人の人間の生き方」にとどまらず、生命としてのあり方と関係しているからです。
墓所の主「人類はわたしなしには亡びる お前達はその朝をこえることはできない」
ナウシカ「それは この星が決めること」
ここで、「この星が決めること」というのを、ナウシカのストーリー全体の中で理解すれば、それは地質的な意味での地球という星を指すのではなく、ナウシカが生きている生態系、そして祖先から子孫へという生命の流れ(系統)を指しているのは間違いないでしょう。ナウシカは墓所の主=神という価値基準によって自分たちの生命が評価されることを拒否するわけですが、そこで価値基準としての役割を引き受けるのは、通常のニヒリズムのようにナウシカ個人ではなく、生態系と系統という縦糸と横糸の織りなす「生命」にほかならならないのです。そしてその意味で、ナウシカの問題意識は、すでに通常の(個人のみを対象にした)ニヒリズムではなくなってしまっているということができるでしょう。こうしたナウシカのニヒリズムを、「生命論的ニヒリズム」とでも言うことができるのではないかと思います。
ナウシカのラストの選択も、こういう「生命」=生態系と系統という縦糸と横糸の織りなす「生命」と、それを支配しコントロールしようとする存在の対立として理解しないといけません。前の記事では、ニヒリズムとの関連について触れたのですが、こういう重要なポイントについて全く触れなかったので、補足としてこの記事を書かせてもらったものです。
本題に関して言いたいことはここまでですが、本題ではないことについてちょっとだけ補足します。
◎環境問題とナウシカ(余談)
この記事の目的である「ラストのナウシカの行動を理解する」ことからは離れますが、ここまでの話は環境問題とナウシカの関係とも関係しているので、これについて少し触れたいと思います。
良く指摘されるように、ナウシカの最初の方(映画化された部分)では、「環境との共生」といったありがちなテーマが扱われているのに対し、ラストの部分では、テーマが「いわゆる環境問題」ではなくなってしまっています。これは、ナウシカが書かれたのは、公害や森林破壊などの問題が起きる中での切羽詰まった「環境運動」(環境を守らないといけないよね)から、その矛盾を指摘する意味で、「環境問題で言う環境って結局人間に取っての環境じゃないの?」という「環境思想」が出てきた時代だということと関係しているでしょう。オームも腐海も全部人工物というのは、こういう時代の流れの中で出てきたものではないかと思います。
そういうこともあり、ラストの部分では、直接的には「いわゆる環境問題」が射程に入っていないというのが、普通の解釈でしょう。しかし、ナウシカの主張を環境問題に当てはめるとどうなるのでしょうか?自分は、以下のように考えることができるのではないかと思います。
「『生きる』ことは、科学技術や『神』のようなものの手段ではなく、それ自体、世界に意味や価値を与えるものである。ここで、『生きる』ことは個人としての生の問題だけではなく、先祖から子孫に伝わる生命の流れや生態系を含めた『生きる』ことを含む。こうした広い意味での『生きる』ことに注目すれば、環境問題も解決するのではないか」
これは、環境倫理を、人間vs.環境という形で理解するのではなく、現行世代vs.未来世代という倫理(世代間倫理)として理解しようとする潮流とも近いのですが、「生命」という観点から考えるという点で、こうした議論よりさらに先に行くものではないかと思います。

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コメント
こんにちは。
最近ナウシカを読み返したので、ふとタイトルで検索してみたところ、貴ブログを見つけ、前エントリーと合わせて非常に興味深く読ませていただきました。
大変明晰な論理で、作品に対しての見方をかなり整理することができました。
******
僕自身は今生態学者を志す者として勉学に励む毎日ですが、そのような視点から見ると、”予測可能性”がキーワードになっているように感じます。
ナウシカの主張は現代生物学における生命の見方と驚くほど一致しています。一方、墓の主の主張やそれまでしてきたことにあるのは、”生態系は予測可能だ”という前提です(これは研究者がしばしば陥る誤謬でもあるかもしれません)。
「多少の問題の発生は予測のうちにある」「人類は私なしには滅びる」というのは墓の主の主張ですが、これが物語内で非常に批判的に提示されるのは、これらの主張が”予測可能という傲慢”を含んでいるからです(同じように、物語中にしばしば登場する虚無が抱えるのは、実はネガティブな未来の予測であり、墓の主と表裏一体の傲慢さだと思います)。
このように捉えると、環境問題という視点から見えてくるナウシカと墓の主との対立軸は、「生命に対する真っ当な理解vs.予測可能という傲慢」というものではないでしょうか。これは自然保護の現場で専門家が感じている葛藤と同じだと思います。
宮崎駿が凄いのは、専門家よりも鋭い指摘がしばしばあることです。日本が世界に誇れる思想家だと思います。
******
乱文・長文失礼致しました。これからも訪問させて頂きたいと思います。

投稿: koy | 2009/10/28 1:48:50


大変興味深く読ませていただきました。
ところで細かい点ですが、本記事で貴方が書かれている以下の部分
『前の記事では、ナウシカがニヒリズム的な立場、つまり「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられる」という立場を取っているということについて触れました。』
は、
「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられるのではない」
の誤りではないでしょうか?

投稿: | 2010/02/19 22:00:45


> ところで細かい点ですが、本記事で貴方が書かれている以下の部分
> 『前の記事では、ナウシカがニヒリズム的な立場、つまり「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられる」という立場を取っているということについて触れました。』
> は、
> 「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられるのではない」
の誤りではないでしょうか?
ご指摘ありがとうございます。
さっそく本文を修正させていただきました。

投稿: 情報学ブログ | 2010/06/26 15:50:47


ナウシカは、自ら生命とは何かと定義している訳で、それは彼女自身を神としていることになる。確かに、旧世界の人間たちは自らを神とし、自らの手で緩慢な洪水を引き起こし、そして生命の尊厳を踏みにじりつつ清浄な地へ降り立とうとした。大罪を犯している。ナウシカは、それを否として哀れな巨神兵を使ってまで自ら裁定を下した。ナウシカは旧世界の最後の神の積もりであるのだ。これは、墓所と同じように傲慢ではなかろうか。生命を捨て駒として使い、自らの精神まで改造して理想の楽園を追い求める者たち。一方で、捨て駒として生きることを強いられた者の中に、自ら何を持って生命とするかを語る者がいる。自ら裁定を下すナウシカは何者であるか。裁定はこの星が下すものだ。裁定はこの星の生態系が下すものだ。この物語は滑稽だ。結局人間は業に包まれている。

投稿: | 2010/07/05 2:52:51


ナウシカの記事を検索していて、偶然このエントリにたどり着き、読ませていただきました。
失礼ながら、このHPを拝見して情報学という学問を知りまして、興味を持ちました。
HPで紹介されていた「基礎情報学」とベイトソンの本を購入したので、じっくり読んでみようと思います。
また訪問させていただきます。

投稿: taichi29jp | 2010/07/09 0:56:04


 マンガ「風の谷のナウシカ」は宮崎駿の哲学書であると、第7巻を読み終えたときに思いました。宮崎駿なる人物がどのような学問的背景を持っているのか私は知りません。しかし、人間をこよなく愛し、エネルギッシュに作品を送り出している希有の人物であることはその後の作品群を見ても明らかであります。本稿は哲学的な観点から生命の本質、ニヒリズム(虚無)との関連、傲慢に対しての考え方など大変示唆に富むものでありました。
 後に作られた作品の中では「もののけ姫」の結末がナウシカのラストと重なります。ナウシカでは旧世界の遺した「墓の主」がナウシカの手によって破壊されるのですが、もののけ姫では生死を司る「獣神」がエボシ御前によって殺されます。どちらも文明の入れ替わりを示唆するものです。さらに共通することは登場人物たちは多くの犠牲を払いながらも力強く生き抜いていくことです。これは人間が愛しくてたまらない宮崎駿の思想哲学を表しています。
 ナウシカほどには批判されていないようですが、人間が殺してしまった荒ぶる神々、一神教と多神教について、エボシ御前と現代人の功罪など読み解く課題は多いと思います。

投稿: 常さん | 2010/07/09 3:04:33


貴殿または貴女の記事を読み、論理的に解説している事に対して私は好感を持ちました。私もナウシカファンとして私なりの解釈を申し上げたくなりましたので、厚かましいとは存じますが、よろしくお願いします。
私は漫画版ナウシカがとても好きで単行本を買って何度も読みましたが、最後の方の墓所の主との対決の場面で「穏やかで賢い人間になる卵」をナウシカが殺してしまった事には納得出来ませんでした。墓所が生む新人類とナウシカ達旧人類が共存出来る方法を探すのが、よりナウシカらしいと思ったからです。
ただ今では、漫画としてあのような結論に至る事は良かった事だと思います。何故なら、漫画は私達現実に生きている人間が読む物だからです。私達現実の人間は、欲望や怒りといった感情を持たないことはできません。何故なら、欲望は向上心に、怒りは侵されたくない大事なものを守る為の原動力になる、大切な感情だからです。もし、作中の旧人類の未来が天使のような心を持った新人類に引き継がれたなら、確かに平和な世界が実現され、一見綺麗な物語の終わらせ方に見えます。ですがそれでは現実に生きる我々に対するメッセージとしては、あまりにも空虚な物になってしまいます。なぜなら私達の心は天使のように無垢ではないからです。そのような物語の解決法では、私達にとって参考にはならず、共感することもできません。ですから作者の宮崎氏はナウシカに新人類を殺させたのだと思います。また、もう一つナウシカが新人類を殺した理由について挙げられるのがナウシカは旧人類や王蟲や腐海を愛していたからということです。ナウシカは多くの人や腐海の生き物、さらに粘菌までもを思いやり、理解をしようとしました。また、自らの命を犠牲にして変異体の粘菌の孤独から救った王蟲の偉大さに心を奪われました。例え王蟲が墓所の作製者が計画した通り腐海を守るために行動しているのだとしても、命を懸けて行動しているのは王蟲自身であり、尊いのは王蟲自身だとナウシカは思っているのでしょう。墓所の主は言います、「生命は光だ!」と。これは、世界が浄化された後に目覚める新人類を象徴しているのだと思います。しかし、新人類はナウシカら旧人類や王蟲を始めとする腐海の生き物達の犠牲に成り立っているにもかかわらず、この言い方は非常に滑稽だと思います。そして、墓所の主からは一度も腐海の生き物や旧人類をいたわる言葉は聞くことができませんでした。墓所の主にとって旧人類や腐海の生き物は新人類を繁栄させる為の道具に過ぎないのだということです。ナウシカは墓所の主に言い返します。「ちがう!いのちは闇の中のまたたく光だ!」と。これは、毒に耐えながら生きる旧人類と命懸けで腐海を守る王蟲達の事を表した言葉だと思います。おそらく、ナウシカは汚染の中で懸命に生きている旧人類と腐海の生き物が、浄化された世界で目覚め不自由無く生きる事が約束されている新人類よりも尊いと言いたいのだと思います。いつかナウシカが城爺の大地の毒で膨れ上がって硬くなった手を見て「働き者の綺麗な手だわ」と言ったように。そうで無ければ、苦労をした者は報われません。ナウシカはそれが嫌なのだと思います。ですからナウシカは、浄化された世界を引き継ぐのが旧人類と腐海の生き物である為に新人類を殺したのだと思います。新人類は庭園の主のように、相手の命は奪う事ができなくても従えてしまう能力はあるのかもしれません。ナウシカは浄化された世界で死ぬ定めである旧人類や腐海の生き物に自立して生きるチャンスを与えたのだと思います。作られた命である王蟲にいたわりと友愛の心が生まれたように、旧人類や腐海の生き物の中から浄化された世界で生きられるようになる者が奇跡的に現れる可能性を信じて。
ただ私としては新人類の卵が一個くらい無事で、そこから生まれた赤ちゃんをナウシカが育てるはめになっても面白いかとは思いますね~。とんでもない悪ガキに育って、ナウシカが「墓所の主は嘘つきね!」とか言って欲しいです。そんでもってその子の子孫が他の場所にある墓所から生まれた新人類と旧人類との橋渡し役になったりとかしても乙ですかね。

投稿: 海老太郎 | 2010/12/28 4:40:05


 昨日、日本テレビでスタジオジブリの特番を組んでいたので影響されたのでしょう、個人的に気に入った作品である『風の谷のナウシカ』について情報を集めていました。そんな折、御サイトを見つけることが出来ましたので、非常に興味深く拝見させていただきました。
 自己紹介をさせていただきますと、私は都内の公立高校に通う学生です(男子)。高校生という年齢でお分かりになるかとは思いますが、スタジオジブリ長編作品の影響を甚大に受けています。なのでどうしても私の中で、『風の谷のナウシカ』は勿論のこと、『天空の城ラピュタ』や『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』といった作品はエンターテイメント性・娯楽性の方が、高くなりがちです。思想とか哲学、メッセージ性というものは、いまの自分一人で到底解釈できるものではないと正直感じています。
 『風の谷のナウシカ』に出会ったのは、中学生の時です(映画の方は小学生の時でしたが)。読み終わった瞬間、「おもしろい!」と感じました。私自身個人的に、絵を描くことが凄い好きです。おそらくその「おもしろい!」という言葉は、作中の表現方法に対するもの。例えば、風の谷やぺジテ市のガンシップのフォルムの格好よさなどが挙げられると思います。しかし何度も何度も読み返す度に、底なしの腐海に入り込んでいく気がしてなりませんでした。読むたびに新しい発見、推測、考察、解釈が生まれてくるのです。今では何回読んだかわかりません。一度読んだだけで理解できっこないとは思いながらも、学校に持っていき、友人に紹介しました。原作漫画の存在を知らない人が多かったようで、皆口々に「『ナウシカ』のイメージが変わった」と言っていました。所詮は知識も教養も浅く、「青き衣」ならぬ「青き尻」を持った人間の言うことです。私自身、御サイトの考察や、それに寄せられたコメントにあることも非常に難しく感じました(「ならどうしてコメントを寄稿した?」といった感じですが…)。
 私は『風の谷のナウシカ』を、「絵」「デザイン性」という切り口からのんびりと検証しています。御サイトのようにウェブ上で発表する予定は全くありませんが、作品を鑑賞する立場としても、また絵を描くのが好きだという作り手の立場としても、この『風の谷のナウシカ』は非常に参考になると思っています。
 私は原作本・原作漫画に勝る映画・ドラマ等の映像作品は存在しえないと思っています。まだまだこの作品の存在自体を知らない人は多いです。一人で考察するよりも、語り合える友人を作る方が良いかもしれないなと、思ったりします。布教と言っては何ですが、『風の谷のナウシカ』の頭に「漫画版」という文字がつかないくらい認知度が高まれば、「『風の谷のナウシカ』と言えば映画ではなく漫画」といわれるほど多くの人に読んでもらえたらと思います。拙文・乱文失礼いたしました。

投稿: 少年 | 2011/03/23 1:40:54


はじめまして。
震災があってナウシカの話題がちらほら出ていたので、最近また原作版を読みました。そして、昔から何度読んでも納得いかないことがあったので、ネットで調べるうちにここにたどり着きました。
ナウシカのラストの行動に賛否両論あるとのことですが、私もどうしても終盤からラストにかけ納得いかないことがあります。
それは、ナウシカが、庭園の主や墓の主との対決で確信した世界の真実(神聖とされる蟲や腐海は墓の主=人間が1000年前に作った、蟲使いも含めてナウシカら人間の生物的な仕組みも操作されている)を、この先、誰にも言わずに秘密する、ということです。
最終ページで、この物語が後年の年代記を語っている風になっているので、年代記にはそこらへんのことがばっちり書いてあるのかもしれません。
しかし、基本的には秘密にするということが、納得いきません。このことが私には現代の為政者や国家権力などと重なって見えてしまいます。
最後の最後には重大な秘密情報について、自分はそんな責任を負えません、王様じゃないし、政治も嫌いだし、自由に生きたいし的な逃げをうっているような気がしてしまうのです。
それに、本人もチククも、ナウシカの神格化を嫌っているわりには、最後にもっとも重要な秘密は、秘密にしておきましょうというのも納得いきません。
思わせぶりな言動(あとは自分たちで状況を判断して、察してね的な言動)はかえって神格化につながるんじゃないですか。

投稿: アリス | 2011/05/04 14:36:11


 はじめまして。大変興味深くじっくりと拝読いたしました。
 3月の震災が起こって10日ぐらい経った頃、急にナウシカを読みたくなり、アマゾンで揃えました。漫画のナウシカは3巻までしか読んでいなかったので、初めて、そして改めて「風の谷のナウシカ」という物語が素晴らしい哲学書であることを感じました。
 貴ブログの考察について、私はほぼ全面的に同意をいたします。(ほぼと言うのは、私の理解の及ばぬ部分があるかもしれないと思うからです。)
以下、私が個人的に感じたことを記します。
虚無について:文字通りの「虚無」からは私も貴記事にあるようなことを思いました。それとは別に、虚無に悩まされるナウシカや、心の森/闇から戻ってこられるかどうかの瀬戸際(第6巻)のページから、私は人の精神世界の闇をも感じました。私が数年前に見た闇の中が絵に表現されているように思いました。実は私はうつ病を患っています。6巻であった、ナウシカが闇の中で膝を抱えている姿をみたとき、涙がとまりませんでした。症状が一番つらい時、まだ自分が病気にかかっているとは気が付かない頃をすぐに思い出しました。私の患者としての実感は闇の中というより「蟻地獄」のようでもありました。もがいてももがいても、どんどん足が体が引きずり込まれるような感覚です。とても恐ろしい体験でした。ナウシカが言う「(生きることを)一度捨ててしまった」「生まれかわったよう」というセリフにも共感します。病気が好転していっているいま、それがとてもよくわかります。実際、私の友人(英国人)が重度のうつ病になり、それが治ったとき「目の前がパーッと晴れ渡って、Re-bornしたようだった」と話してくれました。「病気になる前よりも自分は強くなった」とも。まるでナウシカのようです。私も治療に専念して、「生まれ変わったよう」といつか言ってみたいです。

地球の視点:人間も人間社会に関わる「環境」もすべての動植物も何もかも世界は地球に乗っかって生活しています。ナウシカの言う「星が決めること」に全てが乗っかっているのでしょう。3月の震災や福島のことを考えたくてナウシカを読み直してとてもよかったと思います。
映画版と漫画版で区別されることもあるこの物語ですが、地球という星からの視点で考えるとやっぱり同じ原作に端を発していると思えます。
比喩:腐海の底に住む森の人、腐海に住む蟲使い、腐海のほとりに住む氏族、機械工学を得意とする氏族、宗教が全ての規律である土鬼、文明の中心であることを謳歌する氏族、風使いの氏族…この物語に登場する色々な人間社会は地球に存在する色々な生物をも表しているような気がしました。地球上のあらゆる生物の食物連鎖を…。トルメキア王家の紋章が地を這う蛇であること、「鳥のような」風使いをキーワードにしても…。
第7巻:作者はこの最終巻で丁寧に読者に対して説明をしてくれているように思いました。ナウシカが従者である蟲使い達になぜシュワへ行くのかを説明しているくだりです。

長くなりました。私のコメントは以上です。
ありがとうございました。





[size=+1]「風の谷のナウシカ」 ラストと生きていく道について
 映画で有名な「風の谷のナウシカ」は宮崎駿による原作があります。これは13年間に渡って断続的に連載された大河漫画です。映画版はその途中でまとめて話こしらえたもので別のものだと思って下さい。その終わり方のことを思うとどこまでも考えるものがあります。

 産業文明の汚染が進んだ中で巨神兵という核エネルギーをも体内に内蔵する10メートル近いバイオ技術によるロボット兵器を使用した戦争で文明を滅ぼした 死の7日間から千年。産業文明は再建されず、人類はその文明の残滓である機器を転用しながら使いつつ菌類の巨大な世界である腐海が拡張して脅かされながら 生きています。

 500人の辺境の自治国 風の谷は海からの風を利用してやっと生きていますが汚染は徐々に人を減らしていきます。また腐海は徐々に他の地域を飲み込んで いきます。そんな中でも世界に残ったトルメキア王国とドルク帝国に戦乱が勃発。残った世界の中でどちらが勢力を張るかという愚かな戦争です。トルメキアと の古い盟約に従って辺境の小国が動員され、風の谷では族長の娘ナウシカと城オジたちがドルクの前線へと出発します。その南進軍の司令官はトルメキアの王女 クシャナです。しかしドルクはかつて文明世界を滅ぼしたバイオ技術を使い菌類の森をつくることでその毒によりトルメキア軍を撃滅しようとします。

 挙げ句の果ては地下から掘り出された1体の巨神兵のキットを起動してそれをバイオ技術で育て最終兵器に使おうとします。しかし菌類や虫達を実験に使用し たため腐海の主である王蠱を刺激して巨大な腐海の増殖活動である大海瀟を起こします。それでドルクは腐海に国土のほとんどを飲み込まれてしまいます。この ときに巨神兵はナウシカのコントロールにおかれます。なぜこのようなバイオ技術が出てくるのかはシュワの墓所というところに主がいてそこから漏れ出てくる とわかります。その扉を閉めに行こうとします。しかしトルメキアのヴ王もその秘密を探りに行きます。

 そこでわかったのは、シュワの墓所自体がかつての産業文明の終末期に作られた人口生命体で、実はナウシカたち人もその他の生命種も全てはそのために作り 替えられており遺伝子改良され、だからこそ汚染された世界でも生きていられるということです。腐海も虫たちも世界を浄化するためにセットされたものだった のです。腐海は毒を出していますがもともと大地が汚染されているのです。その汚染物質を吸収して体内で結晶化させ自死するのが腐海の役割です。その際に少 し毒を出してしまう。千年たった場所には浄化された所も既にできています。汚染により人は減っています。ところがこれらの人も含めた生命体は完全に浄化さ れた世界では生きていられないのです。人も血を吐いて死んでしまうのです。しかも墓所では浄化した後に入れ替えるため人は卵を用意。別に「庭」という所に 他の生命種は生きたまま、文化は音楽と芸術を貯蔵しています。そして最終的には浄化された後にすべての生命体を総入れ替えする計画なのです。

 このシュワの墓所の主は支配者にバイオ技術を提供する交換に生命入れ替えするまで活動を継続するための様々の便宜を得ていました。ドルクはしかし滅びた ので今度はトルメキアのヴ王に交渉を持ちかけます。ナウシカはこの入れ替え計画そのものに反発。シュワの墓所を破壊しようとします。

 私は迷いましたがシュワの墓所を壊すのはいいと思いました。それは予定し た人間の入れ替えなど科学者が準備した世界を受け入れない、そんなことはおかしいというのはごく当然の要求だと思うからです。
 実は「超整理法」で有名な野口 悠紀雄東大教授が、『超整理日誌』という本で科学者らしくこの入れ替え計画破壊を批判しています。つまりはどうやって人類は生き延びていくのだということです。

 シュワの墓所の主が「汚染に適応した人間を元に戻す技術もここに記されている」とナウシカに言いますが、ナウシカが「本当のことを言え、汚染した人間と 生物の丸ごとの入れ替え計画なんだろう」と追求して初めて言っただけで、入れ替え計画であるのは間違いない。そして「交代は緩やかに行われる」ともいう が、卵を用意して断絶させようとしているのだから、旧世界の人間に子供を作らせようとはしないだろう。結局は今一代のみによる絶滅計画となるでしょう。反 対するのは当たり前です。

 しかし問題はそこからなのです。この汚染された大地を造り替える腐海は人工的な発生ですが活動し続けています。いやむしろ聖な る生命体として自立しています。もれでたバイオ技術使用の戦争により科学者が予定した以上にあまりにも急速なものとして大地を 全て飲み込みすべての国を滅ぼそうとしています。国が滅べば入れ替えも当然できなくなります。これはシュワの墓所の矛盾そのものです。でも なお技術をもらして入れ替えもできぬまま世界を破滅させるでしょう。

 ではシュワの墓所を滅ぼした後その後の浄化された世界にどうやってナウシカたちは適応しようとしているのでしょうか。倒れながらもなお「朝に向かって飛 ぶ鳥だ」といいます。つまりは自然に任せて浄化された世界にも進化して慣れようというのです。しかしナウシカ達の汚染への適応はバイオ科学によって与えら れたもの。進化が間に合うようなものではないはずです。

 実はこの1つのキーワードとなるのが、「庭」の不死の人口生命である庭の番人だと思うのです。 ナウシカはこの時出会って実は再改良されました。汚染にも浄化された庭と空気に も両方適応するようにです。おそらく遺伝子レベルまでもでしょう。 今後はその技術と保存されている生物と文化をどう利用し協力する かがナウシカたちの生きていく道でしょう。でもそれは否定したものとの和解となるのでしょうか。それを考えると少し苦みがあるな と思っています。chico | 2011/07/29 17:56:39投稿:



ナウシカのこと

ナウシカは、ギリシアの叙事詩オデュッセイアに登場するパイアキアの王女の
名前である。私は、バーナード・エヴスリンの「ギリシア神話小事典」で彼女
を知ってから、すっかり魅せられてしまった。その後、ホメロスのオデュッセ
イアを小説化したものを読んでみたが、期待に反してそこでの彼女には、エヴ
スリンの小事典にあるような輝きはなかった。それで、私にとってのナウシカ
はあくまでも、エヴスリンが文庫本三頁半分で描写した少女なのである。
彼もナウシカに特別の好意を持っているらしいのは、ゼウスやアキレウスの如
き大立物にも一頁かそこらしか費やさない小事典で、彼女にだけ前記の頁数を
さいていることから充分推測できる。

ナウシカ・・俊足で空想的な美しい少女。
求婚者や世俗的な幸福よりも、竪琴と歌を愛し、自然とたわむれることを喜ぶ
すぐれた感受性の持主。漂着したオデュッセウスの血まみれ姿を怖れず、彼を
救け、自ら手当てをしたのは彼女である。ナウシカの両親は、彼女がオデュッ
セウスに恋することを心配し、彼をせきたてて出帆させる。彼を乗せた船が見
えなくなるまで岸辺で見送った彼女は、その後ある伝説によれば終生結婚せず
、最初の女吟遊詩人となって宮廷から宮廷へと旅して、オデュッセウスと彼の
冒険の航海を歌いつづけたという。

エヴスリンは最後に書く。
「この乙女は、偉大な航海者オデュッセウスの風雨にさらされた心の中に、格
別な場所を占めていたのである」(小林稔訳)

ナウシカを知るとともに、私はひとりの日本のヒロインを思い出した。
たしか、今昔物語にあったのではないかと思う、虫愛ずる姫君と呼ばれたその
少女は、さる貴族の姫君なのだが、年頃になっても野原をとび歩き、芋虫が蝶
に変身する姿に感動したりして、世間から変わり者あつかいにされるのである

同じ年頃の娘たちなら誰でもがする、眉をそり歯を御歯黒に染めることもせず
、その姫君は真っ白な歯と黒い眉をしていて、いかにも様子がおかしいと書い
てあった。

今日なら、その姫君は変わり者あつかいはされないだろう。一風変わっている
にしても、自然愛好家とか個性的な趣味の持主として、充分社会の中に場所を
見出す事が出来る。しかし、源氏物語や枕草子の時代に、虫を愛で、眉もおと
さぬ貴族の娘の存在は、許されるはずもない。私は子供心にも、その姫君のそ
の後の運命が気になってしかたがなかった。

社会の束縛に屈せず、自分の感性のままに野山を駆けまわり、草や木や、流れ
る雲に心を動かしたその姫君は、その後どのように生きたのだろうか・・・。

今日なら、彼女を理解し愛する者も存在し得るが、習慣とタブーに充満した平
安期に彼女を待ちうけた運命はどのようなものであったのだろう・・

残念なことに、ナウシカとはちがって、虫愛ずる姫君には出会うべきオデュッ
セウスも歌うべき歌も、束縛を逃れて流浪らうあても持っていなかった。しか
し彼女に、もし偉大な航海者との出会いがあったなら、彼女は必ず不吉な血ま
みれの男の中に、光かがやくなにかを見い出したはずである。

私の中で、ナウシカと虫愛づる姫君はいつしか同一人物になってしまっていた

今回、『アニメージュ』の人々にマンガを描くようにすすめられて、ついうか
うかと自分流のナウシカを描きたいと思ったのが運のつきとなり、とうの昔に
才能ナシとマンガを断念したその理由を、もう一度かみしめるはめになってい
る。今はもう、なんとかしてこの少女に、開放と平和な日々へたどりついても
らいたいと願っている。

(アニメージュ 『風の谷のナウシカ』1巻より抜粋


マンガ『ナウシカ』の最終は、ソ連崩壊、ユーゴ内戦と歩調をあわせて進みました。
「いちばん大きな衝撃的だったのは、ユーゴスラビアの内戦でした。もうやらないだろうと思っていたからです。あれだけひどいことをやってきた場所だから、もうあきてるだろうと思ったら、飽きてないんですね。人間というのは飽きないものだということがわかって、自分の考えの甘さを教えられました」
「『ナウシカ』を終わらせようという時期に、ある人間にとっては転向とみえるのじゃないかというような考え方を僕はしました。マルクス主義ははっきり捨てましたからね。捨てざるをえなかったというか、これは間違いだ、唯物史観も間違いだ、それでものをみてはいけないというふうに決めましたから、これはちょっとしんどいんです。前のままの方が楽だって、今でもときどき思います。……労働者だから正しいなんて嘘だ、大衆はいくらでも馬鹿なことをやる、世論調査なんて信用できない」
 ドルクの初代皇帝が「墓所の主」から知と技をうけとり、進歩の理想にもえながら、最後にはドルクが巨大な抑圧帝国に変質していくのはソ連の歴史に重なります。また宮崎はこんなことも言っています。

「自分の観念で、自分の感じたものをなんとかねじ伏せようとしてきた。それもやめた。今の政治家でも、ただ印象だけで見てます。…政治家としての能力がなくても、この人、いい人だと」

 ここには、理論への不信、自分の実感(好きだとか愛しているとか)への信仰、人間の進歩への懐疑といった、ナウシカが最後に主張したことがすべて顔を出しています。


 風の谷などの辺境諸国と古(いにしえ)の盟約により同盟関係のトルメキア軍の連合軍と、土鬼軍(ドルグ軍って読むんです)と旧土着民(少数民族ね)などなどを含む大群の対決を舞台としたお話なの。

【良い点】
1:キャラクターの躍動感、奥行きと縦の構図を活かした画面は秀逸の一言。特に単行本3巻のクライマックスの会戦シーンは圧巻。
2:「火の7日間」という最終戦争により、毒を吐き出す菌類の森「腐海」と、そこに棲む虫に脅かされながら、緩やかに滅びに向かう人類社会という設定。
3:2にも関わらず、未だに宮廷陰謀劇や戦争の勝利の為に腐海や虫を利用し、結果腐海を広げる(=結果的に滅びを早める)という人間の業の描き方。
4:そうした業を背負っていながら、単純な悪人は存在しない等、深みのある人物描写。それが自然と人間の調和を目指し行動し続けたナウシカの存在を更に引き立てていました。

【悪い点】
1:映画製作のため連載がしばしば中断したこと。ほぼその度に打ち切り説も囁かれ、リアルタイム世代としては一種の拷問でした(笑)。







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